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(なんとなくBBS

遊ぶ夜の浅さよ・・ 逃げの絵巻



*2007.01 現在は時間などの都合もあり こちらの掲示板の方で更新中
更新スタイルはもうしばらく掲示板で更新しつつ、後で時間のあるときにこのページへまとめて更新分(会話でない部分)を移動、という形になると思います。



睡郷沼のぬし 06/11/17(金)

 陰陽 陰と陽

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ふと外に出てみたちょうどその時、見えるか見えないかのほどの、よどんだ橙色を、空の端に見つけた。はたしてぼんやりと・・・しだいに鋭く月がそこから現れた。流星のことも頭にあり、しばらく空を見ていた。ピークは明日のようなので静かな星空だったが、幾つか流れたようだ。見始めてすぐの一つ目のが、とても長く感じた。消えると思ったところから不思議に ゆらーと流れていく印象的な星で、私も途中から思い出したように願い事の言葉を頭の中で組み立てていた。
途中から唱えて、唱え終わった時にまだ流れていたので、最初から唱えれば、3度も可能だったのかもしれない。・・・出来たからといって何かが変わるとも思っていないけれど。

長い尾を見ていたら、あれは星が この世から消えてなくなるという時の、(なんでもないけどしかし)言いようによっては一番苦しい特別な瞬間なのだと思った。そんな時に彼らに向けて一心に真剣に自分の願い事を唱えたりするところの人間というのはなんだかどうしようもない生き物のように思えたりもする。

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(参考  2006流星群ピーク案内  星座早見表  宇宙ステーション位置(地図クリックで場所別の詳細時刻   ))
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流星群、先日17日明け方が、と書いていたが、18日明け方の誤りのよう。18日ならついでの宇宙ステーションももっと見えやすいかもしれない。しし座のあたりに月が出るけれど、月齢がちょうどよく細い三日月なので明るくはない。雲さえ出なければ星も見えやすいかも。

睡郷沼のぬし 06/11/17(金)
30さん> お声、どうもありがとうございます。もっと思い通りに撮れるといいのですが。
めにした全てを何かに残しておきたくなる反面、それは随分重苦しく、本当は何も残さず全て消えていく方がいいようにも思えたり。

睡郷沼のぬし 06/11/12(日)
入り口
 
上段あたり◆狭間は入り口  奥へ◆星座 ◆ ◆螺旋
中段あたり◆表のしずく裏のしずく背中あわせ ◆夜2時半の雷 ◆ぬけ道。 空想の種◆はしご 想像の種  見つけると同時に、空想の領域の中にも同じ梯子がかかり、誰かが住み始める◆
下段あたり◆移ろう◆雲の生まれる処◆雫色々◆田
(梯子の写真は8日2枚目の壁の写真と同じ場所)
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しし座流星群の時期だそう。ピークは昼間のため、18日明け方あたりがよいとか。宇宙ステーションの通過も合わせて見られるかもしれない。なんでもないことだろうのに、わざわざ見たくなる気持ちは何だろうか...
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メモ 夢でみる実家

睡郷沼のぬし 06/11/8(水)
小さな補足と、小さな修正。
◇三枚目の上段右端の沈む月のメモを別の写真につけていたので移動。◇二枚目下段のオナガグモのメモ追加。蜘蛛に見えぬような繊細で静かな体つきだが、餌は蜘蛛だとか。◇イシミカワ、イヌマキ 名前補足

睡郷沼のぬし 06/11/8(水)
露
上段◆露の中の露。露の中には、びっしりと露がついたスギナの葉。そしてそのまた露の中には・・◆紅葉の落ちた地面からは幼い楓の芽が伸びはじめる ◆ひらく 
◆「露のレンズ」の焦点。それは、世界の入った小さな珠。こぼれ落ちて割れた数だけ世界が広がる
中段右◆近くに寄って見ると敷き詰めたビーズ細工のよう。(右上のダルマ型の露も、この全体写真右端に見えている葉)
下段◆蕾の拡大。透ける指先 ◆開花(スペースの関係で分割&ごく一部) 還る
上段あたり◆双子 ◆ユキノシタの幼芽だろうか、とても小さいが、手で描いたような白い線が印象的。同じ大きさでも、なぜか線のある物と無い物がある。(左下1、2) ◆苔(胞子体)。一筋の蜘蛛の糸にも翻弄されるような細い細い苔の体だけれど、やるべきことは当たり前のように行われていて、理科の教科書で見たように、頭の壷の蓋を開いて胞子を飛ばしている。(この写真では開いたぶんには焦点が合っていないが) こんな過程の中で倒木が地面に還っていく◆山の上の彼らの視界
中段あたり◆おしべ。それぞれが、天に向かう祈りの手のよう。◆色づく実。イシミカワ◆カボチャ(蔓)◆あ・ん◆見上げた竹林
下段あたり◆オナガグモ こんな蜘蛛の存在を知らなかった。小さなナナフシのような形だが、脚が8本なので蜘蛛だとわかった。普段は手足を隠し、ただの一直線になるので、数センチの松葉が、壊れた蜘蛛の巣に引っかかっているだけに見える。触ると突然細い手足が出てくる。蜘蛛の巣も糸を数本張っただけのもので、蜘蛛とわかるまでに時間がかかった。体が非常に柔らかく、頭と尾の先が付くくらい反り返ったりする。きれいな蜘蛛で、この蜘蛛なら、蜘蛛が苦手な人にも触れるかもしれない。だが、餌は蜘蛛だという。◆山のずっと上を見ると「門」に見えた◆目の前でクロスされた苔むす倒木 ◆山門脇にある塔だが、塔の隙間には夥しい数の小石(大小あり)が投げ込まれている。この石の数だけ祈りがあったということだろう。小さい頃は自分も鳥居に投げ上げたりしたけれど、なんとなく、今はしなくなってしまった。◆色の変わる「壁画」 ◆楓 ◆ 夜明け前の月と青信号。月は沈み、町は動き出す。
祈り
上段 ◆コスモス◆わらぶき◆絡まる蔓の間に張り巡らされた蜘蛛の巣が、深い山の中、光で浮かび上がっていた。◆沈む月。月が出てから沈むまでの短かさと、太陽のそれとが同じくらいだと考えて、時の速度が怖くなったり。
中段◆ヒコーキ◆550mからの狐の視界(西国4)◆小さい頃天車(肩車)と呼んでいた二段重ねの実。イヌマキかラカンマキ。◆雲と、雲の影(朝)◆光を求めて崖を登る木 ◆続く坂道。 

ここに載せていないし、写真にもあまり撮りようがなかったが、とて印象に残る岩の存在がいくつもあった。自分の中に、ずんとなにか入ってくる感じの。
2羽
上段◆先日の続き。そう思ってみると、なるほど2羽が多い。結局「1」というのは片割れということなのだろうか◆真ン中の数枚。片方が何か持っている様子。もう片方が受け取らず(?)に飛び立っていったら、残った方はくわえていた物をそのまま落としてしまった。単純なことなのだ。◆
中段◆アンテナが矢印のよう。何かくわえている◆雀。一階二階◆◆シーソー◆
下段◆雲の影◆目の前に何かがちらつき、反射的に振り払ったら、それが致命的打撃になったようだ。まだ腹はふとい。生のために食べたばかりのうちに殺されるなんて。赤が透ける腹と、暗い緑が細かく輝く複眼が虚しく。次第に黒ずんでいく赤を見ながら、・・気絶であることを願いつつ。◆古本ブースで昔の画家のスケッチを立ち読みしていた。身を捩じらせて羽ばたく鳥の一瞬の姿が沢山スケッチされており、変哲ないはばたきを写すのがやっとの自分を振り返る。今の便利な道具は人の能力をいくらか退化させたのではないかとも少し思った(大きな進化もさせているが)。
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そういえば、実家で障子を張り替えた時のこと、一枚、和紙の間に蚊が、透きこまれてしまった紙があった。珍しく、面白がって家族に見せたところ、まず笑ったが、これどうしようという段になって、蚊が苦しんだものだから使わずにおけとのこと、そうそう、この性格、と、聞きながら時ふと思った。

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何年かに渡り、たまに宅配を持ってきてくれた方…事務的な対応だけで交差する予定の無かった線…ことに配達などの、定期的に会わねばならない人というのはとても苦手で、営業所止めにしてもらったりして極力直接の対応を避けているのだが、ほんの些細なきっかけから共通点が幾つかあるとわかリ、なぜかメアドまで知ることに。

考えてみると配達人というのは一体どれだけの出会いを毎日しているのだろう。最近のいくつかの偶然の出会いを重ねながら、平行を交差させるのは小さな動きさえあれば可能なのだ・・とぼんやり思ったり。

とわはいえ、わかっていても相変わらず人との交流は殆ど避けてしまうが。
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最近、 偶然だと驚く事柄の大半は、それらの物事を結びつけて考える心にあるのだろうと考えたりしていた。それプラス、アンテナと。

睡郷沼のぬし 06/11/2(木)
しばらく更新できなかったのでまとめて。
空鳥植物
18日上段◆鳥with幻日もしくは鳥with幻日 (左右同時に見えた(それぞれ赤側に太陽あり)10/18)◆蛇。餌は甘露・・?(今回は両目付き)9/21は目なし◆ホトケノザ開く ◆桔梗開く
中段◆虫眼鏡
下段◆幻日の全貌◆雀◆穂 小さなほころび

蘭学者 宇田川榕庵の「花は動物の陰処のごとし 生産藩息の資て始まる所なり」 という最近すれ違った一条を思い出した。
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交差 鳥
中央:私の心のありようしだいで、「交わっていくつながり」であったり「バツ・烙印・だめ・罰」であったり、あるいは「エックス」だったり。きっと色々な物に見えたかもしれない。
◆右:カラス寄り添う◆穴  アフレコができそう

2羽連れの鳥が意外に多いことや、どこからともなく現れて群れが段々大きくなっていく鳥の姿に最近気づいたり驚いたり。
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1放射

スポット・放射いろいろ。山が重なっているためと、小さな水の粒(靄や水蒸気など)のため、少し印象的な景色になる。
◆中段左 放射の光の中に、山の上にある低い雲が浮かび上がっていた。 。◆中段左より2枚目下側  山の陰が、山に縁取りを作る。◆ 

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23日 地元の親戚によくないことがあった。知っている人がだんだん居なくなること、同じ空気は帰ってこないことがとても寂しい。 時間は流れているから、だから前に進まなければならないのだろうか・・。
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30日? そんなことを考えていたらNHKで驚異の小宇宙人体の再放送をしていた。ちょうど、リアルタイムで見た当時とても印象的だった回のもの。生後、胸腺で自分と他者を見分ける細胞が、とても厳しく大変な過程を経て作られるが、子供の頃に既に退化が始まり、老いた体では見分けることが出来なくなり自分の体をも他者と見なしてしまったりする。寂しいけれど長い目で見ればそれは、・・という内容。

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21日。カメラのレンズ壊れる。ありえないが一メートルの高さからコンクリの上に落としてしまう。幸い割れはしなかったが、前レンズのズレや内部レンズの外れのためにガタガタ。見た目はあまりわからないが、写してみるとかなりひどい。元々別の件で修理したかったカメラ本体、これをキにまとめて直してもらうべきか?と修理。買った時の値段をずいぶん超えていて(中古で購入の物)血の気引く。それに修理後きっちり元の画質に戻るかも保証なかったけれど、面倒なのでそのまま修理に出してしまった・・・いつもひどく損な選択をしている。

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不思議な出会いの道筋 先日に続きその2
19日。寂しい郵便受けに心当たりのない大きな郵便物が届く。近くから。名前を見ると田中とあるが。はてな…。宛名もあっている。ダイレクトメールかとも思うが、再利用された封筒を見るとそうでもなさそうで、開けてみる。薄い額や写真らしきものが幾つか出てきて、さらに???

でも写真を見たらすぐ合点した。9/7・9/21の7枚目に書いていた、たまたま側で「午時花」の写真を撮っていて少し話した方。別れ際、私の言葉が下手で、思ったことが上手く伝わらず、どこか拒否られた感じもしていたので予想外であった。デジタル物やメールはサッパリだと何度もおっしゃっていたが、読むだけなら出きるのでまた連絡くださいとあたたかなメモの他、公園で開催される写真教室の案内と「参加するなら自分の一眼の余ってる分を貸しますよ(一眼は各自持参のため)。」というメッセージまであってありがたし。参加ならカメラに慣れてもらうためその日までに1度会えればベストとのこと。願ってもないことである。とても行きたいけど・・・行けなさそう。

そんなことを考えながらもう1度住所をよく見た。なんと。N町とある。 偶然にもその前日に、他県の同名(N町)の地図で、ある人(私にとって重要な人)の家を探した。ちょうど引越し後の住所を教えてもらったところで。 たまたまそんなことも重なり驚き、「go」のサインなのかもしれない、と思ったり。9/21日の茶道の件に続いて再び一期一会という言葉が浮かんできた。

開催は全二回。参加している自分を想像してみる。この機会を逃すのは残念で、まだお返事できずにいるけれど、こんな風にたくさんのいい機会や貴重な出会いをやり過ごしてきて今に至るような気がする。機会に対して100%の姿勢で向き合った時、本当の意味で一期一会となるのだろう・・・。

入っていた写真は、やはりどれも見事な写真で同じ物を撮っても全然違うものだ。

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19日。日野葦平 「つきかげ」とても短く簡単で淡々とした童話なのだが、読んでいると深い深い階段を1人で下りていくような寂しさに包まれる感じ。だけど、それを書いた人が居る(いた)、というのが、自分の中である意味灯り。

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10月末 塔和子  たまたま付いていたTVで知る。苦しい境遇の中で紡ぎだされた、深くぶれの無い詩の前では、たいがいの余分なことは消えてしまうように感じる。 参考(下のほうに幾つか詩が掲載→   命*  錨*  など多数)


睡郷沼のぬし 06/10/14(土)
10日空
上段◆スペクトル(彩雲) 普段は空にない色ゆえか、みどり色がそこにうかんでいると一瞬少し違和感◆(右)繋がって広がる階段 どちらへ行くか 消えぬ間に急いで駆けのぼれ
中段・下段 ◆霧。起伏のある場所のせい(地形や風)か、霧が晴れる頃、左右の町並みを見比べるとそれぞれの霧の濃さが明らかに違ったり、風に押し流されているのが見えた。◆五線譜 朝の音
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1立体

起こし文(立体絵)。 いつだか浮かんだ物の適当な試作。 お世話になった信号つながりで海辺の方の年賀にどうかと。浮かぶだけで結局殆どいつも作れず&出せずににいるけれど、浮かんだことも忘れそうなのでメモ。(最近そんなことばかり。だいぶ脳細胞が死んでいる)
海辺の"初日の出"と信号と信号の青=歩くのイメージで。

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ある集まりから集合のお誘いを頂いた。悲しい記憶の多かった学生時代に・・・それはもう、心がとけるような沢山のありがたみをもらった集まりで、それ以来あえなかったことや経過が、色々心の出来物のように、どこかずっとじくじくしていたので、涙が出るほど嬉しかったけれど、時期が難問。・・とはいえこれを逃すともう誘ってももらえない気もする。どう選択しても何かをを失いそうで不安。でもまず体調をどうにかしないと話にならないか・・・
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お知らせ 10月いっぱい、パソコンのメールは使えません。 。

睡郷沼のぬし 06/10/11(水)
(その後   ↓右下の飛行船=ツェッペリンNT号らしい。世界最大の飛行船。世界中で3機あるうちの1つ。ただ今ドコモが使用中 *)

睡郷沼のぬし 06/10/10(火)
ここ数週間のメモまとめて・・(上=新)
10日空 同じ朝の空
◆桜吹雪(とてもこまか)◆炎波◆階段◆プリズム 幻日と彩雲?(写真では色が殆ど見えないけど・・)
◆雲の海◆花に朝日◆けぶる◆雲・太陽(縦長一つながり)◆どこからともなく空をいっせいに羽ばたきはじめる◆色づく (&実の付け根が梅の花のよう)◆飛行船?記念日の催し用か?

飛行船以外の空は、全て一つながりのほんの数十分の間の今朝の空の状況。(飛行船は数時間後。2枚の植物は別の日)。加えてカメラを用意している間にもう一つ変わった風景を見た。これを書いている10日夜は雨。自分の出会える(実際に見たり感じたりできる)世界というのは、ほんとうに限られているのだと実感。

幻日は最初右だけ出ていた。それが消えたあと15分もしただろうか左の幻日(下の方に参考リンクあり)がうっすら現れた。プリズム現象がおきやすい空だったようで、同じような時間、ほんのり彩雲のようになっていた部分も。
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捕

つーかまえーたとおーもったら ほんとは私がかごの中
こんなところまで光をとどけてくれたのか
優しさでもなく、ぎむでもなくて ただただ無音に降るひかりの音色








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前に満月を撮った時(9/21ぶん)からもう一ヶ月も経ったとは。
そういえば保健の授業か何かで、一生のうちに作られる卵子の数を聞かされたとき「限られた時間」というものをうっすら感じた記憶がある。 あと何度満月が見れるのか、とか、リアルな数字をいつももっと感じて・考
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写真など
◆その日、朝の光に向かう飛行機雲が肉眼で虹色に見えた気がして大き目に撮ってトリミング。 ◆家いえ。小さく区切られた無数の一つ一つの灯りの中に、それぞれの数え切れないほどの世界が繰り広げられていると思うとぞっとしたり、寂しくなったり。◆泡のような過去の唯一の頼りない証◆風の足跡の交叉 ◆夕暮れ前の畑。苗と老いた手 ◆よその犬 遠くの庭に姿だけ見えるのだが、1枚無意味に撮った日以来、ベランダに出たとき、なんとなく姿を探してしまうことが多い。見続けていると身近になったような気にもなるが、たまたま夜に近くの道を通った時、当たり前だが自分の足音に酷く吠えられた。無関係なのだ。

上に書いた畑も、日々の成長を見ていると、まるで自分と身近な人の畑のような気になってくるし、10年目にして、その畑の持ち主に関する意外な人間関係に気づいて自分の中で驚いたり(興奮?)もしたが、やはり自分とは物理的に全く無関係だったり。
また、あるところに、手紙をとても書きたくなるが、書けるだけの関係も資格もない相手だったり。

以前、世界は実は繋がっている、と、気づいて大きな何かを感じたこともあるが、今あらたに、実は世界はデフォルトでは案外殆ど繋がっていないような気もしてきている。大きな孤独感を感じる
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21日の二枚目最左端の写真も、撮った時気づかなかったが幻日(左幻日)だったと思う。  (幻日=空の現象の一つ。「赤側」の延長上に太陽がある。「空の博物館」などわかりやすいかも。 その他いろいろサイトあり。* * * *

もう少し前に「もしや」と思って空を見たとき二日続きで朝虹(形は普通の虹)を西の空に見つけたけれど、あまり空を見れない状況でもこうなのだから、空は日々実に様々な表情を見せているのだろう。。全てに関して言えるけれど、何もないことの方が珍しいのかも。

・・・ぁぁ、でもそんな中止まったままの自分。周りはすごい速さで流れているのに。

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少し前にファイルがフラッシュディスクの不良?でたくさん消えたことを残念がっていたけれど、実はそれより前に、保存していたファイルががあらかた消えてしまうということがあった(こちらはウィルスのため)のでそれで余計打撃が大きかったかも。

そんなこと(やその他)があるうち、生きるということが「自分自身」のことなのかそれとも「残る物」のことなのかわからなくなってきたりも。
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わからないもの。だいぶ前、沢山の試供品などをゴチャゴチャもらった時にたまたま入っていたオンブルローズの「フレーシュ」という香り。どこかで嗅いだことのあるような気がするのだが思い出せない。原っぱ?草の花粉?日差し?。過去の何かの匂いがする(バラ等ではなくて)。 好きとは少し違うが印象的。

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映画10ミニッツ・オールダー (人生のメビウス)・・・・・先日深夜放送をたまたまナガラ観していて引き込まれた。そういえば何年も前にこの映画の記事を読んで観たいと思った気がする。15人の監督がそれぞれ作った10分間の作品を寄せ集めた物(のうちの片方)。一番目はほぼ見逃したが、二番目の「ライフライン」(ヴィクトル・エリセ)や最後の「夢幻百花」(チェン・カイコー)など印象的。特に「ライフライン」はカットのつながり一つ一つがすばらしく。


睡郷沼のぬし 06/9/27(水)
(補足 ↓相手の話で「茶事」という言葉が出た時にやっと気づいた。  それと、私に話し掛けやすい雰囲気はない)

睡郷沼のぬし 06/9/26(火)
写真など
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今になって、つくづく変わった出会いだったかもしれぬと思う。

数日前・・・はじまりは夜中(早朝)、「一期一会」という単語が茶道に由来する物だという一行を見つけたこと。なんとなく辞書を引いてみると「茶事」の文字があり、自信の無い読みかたを確認するために「茶事」を引いた。

そしてたまたま、明け方近くになって一年以上ぶりで10分くらい先にある場所(丘)まで行った。
写真を撮っていたら、見知らぬ方(丘に登る時すれ違った方)が声をかけてくださった。草を摘んで帰るところらしい。赤い穂(実?)のネコジャラシが手にあった。(光はないのに、遠眼には朝日か夕日を浴びているようにそこだけぼんやり光ったように見えてその魅力を知る。)「写真ですか?」「ぁ、はい、いえ」などの言葉を少し交わす。交わしているうち、色々な共通点(母の年と同じとか、大根島のこと、ご親戚の方のこと)があり、・・・そしてなぜそうなったのかわからないが、結局その方の家までお邪魔して朝食まで頂くことに。

今改めて驚くのは、その方が茶道の先生であられたこと。何時間か前に辞書で「一期一会」〜「茶事」を引いた後だっただけに。
茶事の話をしてくださったり、また、会話の中でも”一期一会”を意味する言葉が沢山・・・というより、その方そのものがそんな生き方をされているようだった。作法のサの字も知らぬ私にお茶を立ててくださった。茶道は学ぶ機会を逃したのでこれまで近づけない領域だったが。


微妙な色合いも味わいもそこにこもった物も自分が飲み込んでしまうのがもったいなく思われた。
(それはそうと、ご夫婦揃ってすごい方で、私は縮んだけれど、とても輝きを持ってらっしゃって、短時間のうちにおおきな勉強をさせていただいた。
また、うちの家族と同い年とはとても思えず、家族に対してかけた苦労を思ったりも)


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こういう(詳細は書かないけれど)ある状況(いやな・・)にでもならなければなかなか作ることも出来なかったもの。少し前にayaさんの「人物画が描けなくなった」という書き込みの時にはこれを関連付けて考えなかったが、私も・・・というより私がそうかもしれない。少し久しぶりで作りはじめてみると、まるで作れない。時間が空いたので、イメージの変化を束縛しないように、作りかけのものではなく一から作り始めてみたのだが・・変化ではなく確実に消えているようだった。元々無いに等しいイメージだったけれどさらに。


睡郷沼のぬし 06/9/21(木)
3枚目下段黄色のメモ無し を補足。

睡郷沼のぬし 06/9/21(木)
整理できなかったので、まとめて。 (重いので適当にとめてから開きたいとこだけ開くといいです)


◆いつもどこかで静かに ◆ 2羽  ◆夕
夕

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◆プリズム (幻日=空の現象)◆薄い和紙に漉き込まれた細い月 ◆産卵(浮かぶ月) ◆透過日 ◆月 ◆夜、空を少し見ていたら、そのとき風が変わったのか、雲が次第に段々模様に織り込まれて遠くずっと奥まで続いて流れていった。その間を月が見え隠れしながら進んでいた。亡羊とした過去から未来へ・未来から過去への階段・・足をかけたら消えただろうか。・・何が? ・・いろいろ
闇光



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(上段)◆かまきり ◆毒へび ◆かたつむり鳥 ◆開花(白彼岸花) ◆屋根
(下段)◆実に止まった抜け殻・・・(この実は右のように開く。開く時の抜け殻の落ちる様子などが浮かんできた)
◆移ろう季節の足音 ◆噴水 ◆ろうそくの原(彼岸花) ◆干渉 ◆散る前の午時花と蟻 ◆枯葉を突き抜けた芽(彼岸花) 近

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数え切れない一瞬というレイヤーの細い狭間にいる
コマ (ココア・水干絵具)
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消え残り 9/8に書いた消えた日のファイルのうち、カメラの中に残っていた数枚。
「ここを撮りたい」と思って撮った大きいサイズの物はメモリサイズの関係で全て削除してしまっていたので時の残像の中だけにあるのだろう。
左の花は、これを撮った後(か前)に沈む夕日の西日が当たって輪郭が輝いて花びらがほんのり透けて印象的で何度も撮った記憶があるけど・・。その他かなりしつこく撮った場所もいくつかあったがそれらは残っていない。パソコンの不具合によるファイル消失なので「復元」という便利なソフトでも見つからず。


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蓮の水琴窟 後日、同じ景色を求め行ってみたが天候悪し。その代わり、音を知った。
雨上がりの蓮池の中は、はまるで巨大な水琴窟の中にいるようだった。ゆるい風が吹くと、大きな葉がゆっくり傾き、たまった雨の雫が、葉から葉へ伝い(写真右の矢印)あちこちで池に落ちるのだが、葉と池の間に出来た空間でその音が響き合い、池全体から聞こえてくるのだ。夜に一人で聞いたら、どんな気持ちになるだろう。
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蓮
午時花を撮っておられた方(9/7)に同じ場所で偶然会い、近くに違う種類の蓮があると教えてくださった。「池は小さいが色は1度見たらもう・・」ととても満足そう。写真を見せていただいた。ビビット。魅力的な花を魅力的に撮れる人だなぁ、と思った。今の自分はこの色の蓮を撮るにはまだ準備が出来ていない気がしたが、気になって、その足でその池も覗いてみた。いつも思い立つのが遅いので、撮りたいところが見つかる頃には日が暮れる。

オオオニバスも広がる池。最初はグロテスクとしか感じなかったが、朽ちて化け物のように腐っていく大きな葉の根元から新たな若い葉が生まれているさまや池の間から覗く、赤紫を秘めた小さな蕾など印象的だった。(オニバスは写真なし)
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前にしつこく撮った(データが消えた)所へ行ってみると、草刈りが行われたようで、刈った草が池の中までおびただしく散乱したり、蓮も一部抜かれていたりして風景が変わっていて撮れず残念。
水玉



睡郷沼のぬし 06/9/20(水)
お返事、だいぶ前にかいていたのだけれど、更新できないまま時間が過ぎてしまいました。会話なんて、リアルタイムの楽しみの要素が強いものだろうのに・・。ちょうどその頃考えていた気持ちとリンクしたぶぶんもあって、こちらに書きたいことと、書きかけていた自分のメモと、自分の中でもごっちゃになってしまい、ずるずると。

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96さん>
感動だったり、恐怖だったり、一方通行の恨みだったり、感謝だったり、自然に対しては色んな感情がわく場面があるけれど、そうですね、結局ちっぽけということなのかもしれないですね。
ぁ、でもそんな「96さん」そのものも自然現象の一つだったり。
ちっぽけ>
ちっぽけなのに、目の前のことでいっぱいいっぱいで・・・情けないです

カランは猫のサイズにぴったりなうえ夏場はひんやりと気持ちいいのかも。

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ayaさん>何とも偶然。「PCに」というと、なくされたのはデジカメの方かな。 お店には電話とかされてみましたか?それはすごくショックですね。どうか管理してくれるようなところに忘れているといいのだけど・・。

データなどを無くして、ふと考えるのは、何のために自分はこんなに何かを残しておこうとするのかということなど。考えると、本当は全てのものがどうでもいいんじゃないかという疑問や、また逆にすれ違う全てのものを残しておきたい欲求が入り混じって、無くした惜しさと合わさって、もんもん。

「とても些細だけれど二度と会えない光景」に出会って写真に撮った時、本当はいつもたえず誰にも知られずひっそりといろんなことが起こっているのだと改めて感じます。沢山のファイルが消えたり、無くされたカメラそのものもそんなことの一つだったりもするのかもしれないなんて今思ったりもしました。

最近、携帯の画面に保護フィルムを貼ってその間にとても小さな文字で、失くしたときのメッセージと連絡先を書いた物を挟んでいるのですが、カメラにも名前入れとこうかな。ayaさんもどうですか・・。

蓮池、ayaさんの近くにもあるんですね。初夏とは、いい季節に行かれましたね。緑の色合いも最高ですし。ただ、開花の物は見られなかったとのこと。もしかすると時間の関係もあったかもですよ。開花は早朝暗いうちで、朝にピーク、そこからは閉じていくようですが、特に咲き始めてから二日目くらいまでは昼までに閉じてしまうようです。

ayaさんのそのときの雷のイメージ、心地よさそう。頭の中に、雷の閃光を含んだようにほんのり光を放つ輝く一輪のユリが浮かんでayaさんと重なった感じ。全く私の勝手なイメージなんだけど→、天球の卵(腹)の中で守られたユリ。鼓動や囁きのような低く響く雷鳴とへその緒のような稲光が浮かんだりしました。

人物画は、「たくわえている」時期なのかもしれないですね。描けないとはいうものの、絵に対してのayaさんのありようを冷静に捉えてらっしゃるのはさすがです。

私最近何度か画用紙に向かったのですが、何枚も、画用紙上で色を混ぜることしか出来なくて形すら描けない自分に酷く落胆しました。一週間程前に至っては10色ほどパレットに絵具を作っただけで眠ってしまいました・・・

(追伸
写真を撮りに行って撮れる写真って、考えてみるとあまりなくて、明け方少し近所を歩いた時などに急いでカメラを取りに帰って撮るとか、そんなのが多いです。だから蓮を前にして鬱感感じました。朝露の中咲き始める蓮、偶然光と陰が作った光景など撮りたいのですが、それならそこに住まなきゃ私には撮れないかも。その池の近くに○○荘入居者募集のプレートがあったので、住みたい、とすごく思いました。)

睡郷沼のぬし 06/9/8(木)
・・・(とここまで更新しかけて7日更新用の画像ファイルの方は作っていたが、翌日最近のカメラのファイルを改めて整理すべく開こうとすると・・・ない。 一時的にHD代わりにPCにつないでいたUSBメモリに入れていたファイルがほぼ全て消えていた。1Gのメディアの中身がたった数個になっていて呆然。写真バックアップだけは2.3重にとるようにしていたけれど、ちょうどこのハスをとった時頃のはまだ整理しておらず。・・・怪しげなメーカーのメディアと、瀕死のパソコンなので、何が起こっても不思議ではないのは了承していたが。    カメラのメディア容量(64M)の方も、増やそうと思いつつ少ないままで過ごしたことが悔やまれる・・。→カメラにあまり入らないので、新しい写真を撮るためにこまめに削除せねばなきんらぬが、カメラ容量を増やしてさえいれば、カメラ側にデータも残せていただろうのに。その時のおそるおそるカメラから削除した時の情景が未練とともに戻ってきたり。。最小画素数で撮ってずるずる甘んじていたことが悔やまれる。せっかく最終の開花に間に合っただけに余計、凹。 無理やり出かけていった気力や、ファインダー越しにドキドキ?したあの時間は結局なんだったのだろう、などと考える。二重バックアックが間に合わなかった数百枚の写真や(いや、それだけですんで良かったとも言えないでもないが・・・)、その他に、個人的にかなり大事なファイル(宝物)、また記憶定かでない諸々のファイル。保存してあることについ安心してしまっていた気も。どれもあっさり時空のはざまへかき消えり。。

睡郷沼のぬし 06/9/7(木)

閃光雷。外を覗くのが億劫で、夜中頃、遠くで疼くような音になってからやっと外を見た。もうだいぶ遠ざかっていた。しばらくレンズ越しに見ていたが、「くだらないか」と、カメラをもうしまったとき、それまでにないほどの光の筋が空一杯に広がっていくのが(肉眼を通して)見えた・・。
”生きた”巨木、いや血管・・・
  *  *
いつか誰かに空も海も同じだと言ったら(その意見は)わからないと言われたことがあったような気がするのだけれど、世界は最終的に一「ひとつ」に集約されるのではないかとかぼんやり思ったり。


しかしそれはそうと・・・ 空がどうであれ”世界”がどうであれ私の目の前のあれこれは変わらないのは確かで・・。考える意味も無い



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閃光
骨を乗せた船はやがて。

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中段。気づかぬような所にキノコ。とても薄い体で傘が透けていた(下段=少し拡大)。透けるくらいの存在の方が、あるいは良いのかもしれない。

中段中央と下段右端右の赤い花は午時花という花らしい。1,2畳くらいのスペースに咲いている場所があり、落ちた花や、咲きかけの蕾のうっすら目覚めるような様になんとなく惹かれて何枚か写真に撮ったら、たまたま側にいたカメラを持った方が、花の名前や、咲いた花はその形のままに落ちることなど教えてくださった。首から落ちて椿みたいだ(そう思って見るとなんだか雰囲気も変わるなぁ)、と言ったら、あぁ、と、あまり興味なさそうで。その人が「今日はこのゴジカを目当てにきたのだけど、残念ながらいい花がないね、本当はぱーっと華麗に咲くのに」というので、咲いている枝もあったと思い、いくつかご案内してみた。・・・・先ほど私がスルーした場所。「おー、こんなところにあったのか」と喜んで下さってよかったが、・・・見ている物や見たい物は、皆、本当にそれぞれらしいと改めて感じた(また、求めている物ほど見えなかったりも)。(下段右端が落ちるとこ)
閃光
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見渡す限り・・・というくらいの蓮の中を通る木橋から下を見下ろしたら、「蜘蛛の糸」の話で、お釈迦様?の庭の池と暗い地獄が繋がっている情景が浮かんできて、そのように思えてきた。(特に右)
閃光 何年も前に(から)とても蓮が見たくて、当時ネットですぐ近くに「大蓮池」があることを知り友人と行ったことがあった。・・・がそこは蓮など一つも見当たらない地味な池で、結局そのまま見れずに何年も過ぎた。最近近くで見れる所をたまたま知ったのだが、既に開花時期が終わっていたのが残念。なかなか出かけられないのだけど、これを逃すと後悔しそう(来年も大阪にいるかわからないし)で、池まで行ってみた。最終の咲き残りが一つ2つ。こんな風に季節は変わっていくらしい。
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・・・一年位前から肌がおかしくて、原因はわからないが、「夏の日差し」に長時間あたると片手と顔と鎖骨の辺りが被れるようになってしまった・・・。今回は蓮の代償に。

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亀猫 猫と亀

睡郷沼のぬし 06/8/26(土)
乾いた腕とハートの蔓の空
空考えることすら億劫になってきているように思う。


太陽の残り火を惜しんで薄闇を無駄に走り続けるとき、また逆に闇がふわりとかき消えて色彩が浮かび上がって焦ったり驚いたり困ったり喜んだりするとき、別れの時、そんなせつなばかりに時間の早さを感じてしまうけれど、ここは、生も死もいっしょくたに切りさいてしまわれるくらいのほんの一瞬のなか。

大切なことをたくさん自分から失ってきたけれど、あまり無駄にしてしまわぬように・・・と、自分に悲しみを込めて願う

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見えない結界 、檻、枷 etc. まるでそんな感じで苦しい・・・と、思っていたちょうどそんなとき、こんな物を見つけた。(↓写真右)蜘蛛の糸
「そうそう、こんな感じだ」。
そして、なんともちっぽけだ・・・
(その他の写真・・・ 露草、シダのひらく)
蜘蛛の糸
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作ってからしばらく経ったが・・。立体の(飛び出す)小さな話(肝心なところは載せていないので覚え書きとして・・・)
立体

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藪森家
 空想
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30色近くの残量僅かなホルベイン透明絵具袋詰を(中古で)数百円で買う。さび付いたり中で固まったりのものだが水彩なので良し。微妙な色が沢山入っているけれど、なぜか黄系がない。どんな人がどんな物を描いたのかぼんやり考えた。
余裕があるときにアルミパレットで固形パレットを作っておき”たい”。不透明と透明を同時に使えるようなのを。

スーパーの売り場の絵具に混色表がついていた。欲しいと思った一方で、退化しているのだと感じた。

洗い水に筆を下ろした時の水中に絵具が広がる動きと、濡れた画用紙に絵具が広がったときの一瞬を止めたい(自分のものにしたい)と感じる。それを残しておけるカメラが欲しい。ダーウィンにはなれない。

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小さな中国のお針子(*)・・・夜中にながら観した。

睡郷沼のぬし 06/8/22(火)
(16日の2つの絵絵 絵 が表示されてないと教えてくださったお方、ご親切にどうもありがとうございました。アドレス間違っていたようでした。)
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たいせつなものは海の中で星になってきらめきを得る。
小さく光る無数の星たちは、やがてその口から紡ぎだされた言葉によって小さな星座となり、いくつもの星々の形は、ただ孤独と感じていた暗闇を広いキャンパスにかえる。

だけどつかもうとすれば遠すぎて、
水に映る影も風にすらかき消されるのだ
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眠るごとに、なにもかもが急速に消えていくよう。 深いふちのはしから、しまいにみんな溶け出して。
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夢音
歌詞付きの、とても短い曲で、しばらく覚えていたが忘れてしまった。「唇」という言葉とかすかな曲調しかわからない。
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捲らぬままのカレンダー。半年以上も同じCDの入ったままのプレイヤー。特に好きでもないその曲を、たまに服を着るように、ただ流す。 からっぽだ。
フルでもエンプティでも、時間は同じだけ流れて、同じく消えていくのだ・・ とわかってくる実験の証明のよう

睡郷沼のぬし 06/8/16(水)
無題
絵 最近のメモ
夢図  この絵→絵 (紙などに描いてあったわけではなく「絵」として目の前にあった)を見ながら「二番目の段の色をこの色にすることの心理的理由は・・・」ということについて考えていた夢。
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ただの音メモ MIDI  (1分弱)

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14日 夢の行き止まりメモ 「プロソフェチウム」 ・・・写真現像の仕方の一つ   「ハッチカメラ」
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闇の川とかけら  

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救いがたい日々。怖くていけない
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何週間もかかってまだ書けぬ手紙。 もうとっくに忘れられたかもしれない。 時間と共に、内容や微妙な表現を変えていく作業をただ無意味につづける。そしてまた一言と変えていく作業の中で、意味をなさなくなって消えた行たち。次第に本文は簡素になっていくようだが、逆に不必要な物が排除されていくのはありがたい。本当にすっかり忘れられた頃にやっと出したりするのかもしれない・・。
(このところ、何かを終える作業をしている自分の姿が自分でも考えられなくなってきつつある・・)

便箋の間から10年近く前の書きかけの手紙が出てきた。読んでみて、「”この差出人”はすごく嫌いだ」と思った。私は自分の嫌いな人間だ。

そういえば、半年前の手紙も。下書きと便箋を完成させたまままだ手元に。そのほか出したかったメールもいくつもあった。
想いと行動の差を埋めてくれる機械があればいいのに。
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ある色に対する感覚が何日かのうちに極端に変わり、驚く。  過去にも何度かこんなことがあった。(上の絵などは関係ない)
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数週間電話に出れず。こうして減る知人・・
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ブラックライトを見つめているときに見えるにょろにょろした感じは何だろう。
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足の裏の見にくい所に数ミリのガラス片刺さる。抜こうとするも根元で折れ冷や汗。ルーペや針で最後には取り出せたけれど取り出せなかったら困っただろう・・。人の皮膚(体)の無防備さよ。

同じ日生まれの知り合いがいるんだけれど、その人の世界があまりに広く、また積み重ねてきた層が多すぎて、自分の存在理由の空白を、今まで以上に思ってしまう。

早晩、安い車を用意しなければならないかもしれないが(お金ないけど)・・。 日々、人生捨てているようなことしか考えないのに、中古車をちょっと調べながら、安全装置がついてないのはいやだなぁ、と思ったりして、矛盾している・・



睡郷沼のぬし 06/8/5(土)

(写真左より)
縮小 縮小 縮小 縮小 七夕だなんて忘れていた。バスを背にふらふら歩いた帰り道。海辺の道角の公園に笹の葉と短冊が揺れていた。 「よぞらの星が いつもきれいでいられますように」と幼い文字。そんな願い事と「○○○海」と添えられた名前が見知らぬ人物への興味をかき立てる。

雨の日。 変な時間に外を眺めていた。車の陰から覗くマフラーに雨宿りしていた小さな白い蝶。困った場所に止まったものだ・・。ずっと居れただろうか?飛び上がる蝶の短いストーリーが頭を掠めて雨粒にはじけ飛び去った。


雨の中、日々紫陽花の色が変わっていくのを、切ないような気持で見ていた。
青空が広がって窓ガラスの水掃除が行われたきらきら暑い日に、紫陽花は刈られた(来年のため)が、夕方にはその根元に咲く予定の秋の草を手入れして回る人。どんな花が咲くか嬉しそうに教えてくれたけど自分はそれを見れないと残念がったら後日種を分けてくださった。

実家に撒いてホースで水撒きをしていたら、傾きかけた日差しを反射して虹が広がっていた。本当は色んな色に満たされているんだ、とはっとする瞬間。

帰り道
バスをやめてよく歩いて帰った。歩いていると高速では気づかなかった物にもたくさん出会えるけれど、反面それに増してひどく寂しく感じたりもしていた。
運転手はとても丁寧に生きている感じの人で、挨拶を聞くだけ、乗るだけでなんだか元気になれるようだと感じたし、知り合いだっていたのに。見えない糸でもあるようにいつも暗い道に引きずり込まれていた

教えて貰った道を辿り、やっと着いた目的地。結局目的は果たせずの帰り道。小さな神社を斜めに近道した。赤い頭巾の狐。よじれた古木。徒歩は時間の流れや自分の限界を教えてくれる。夕暮れ、不思議に輝くぽっかり浮かんだ小さな狐型の雲が沼に映っていた。(写真では小さいし白く映っているのでよく見えない)
・・・狐、と書いたが、その時は本当は「カンガルーだ」と見えていた・・。神社のことを今書きながら、まさに狐だったように思う。

一昨日の真夜中、少し外を歩いた。小さな鳥居があって、なんとなく素通りできず引き返す。皆が幸せでありますように&皆が幸せになりますようにと、勝手なことを祈ったり。一方で、エゴだと自問自答をくりかえす・・

狐様に憑かれるのならあたたかいというもの。狐相手に相談だって出来よう。しかし自分など何にとりつかれているか・・

睡郷沼のぬし 06/8/5(土)
HPのファイルが使えないままで困っているけれど、幸いBBSは使えるらしいので少し更新。。

たまたまたどり着き、たまたま開いたページが、自分にとって関心ごとと交差して驚いた。 東京大学総合研究博物館のページ。そこで閲覧できる古い手描きの植物図鑑「本草図譜」の中の数ページ(1 2)。雑多な情報をくぐってそのHPへ、そして色んな図鑑やら催しのページがある中、めちゃくちゃなクリックでまっすぐ辿り着いてしまった。 (本草図譜、どのページも根の先まで詳しく描いてあるのが、また素敵)

何十年か実家で作っていた高麗人参。数年前前から、生産を止めることになり、残すところあとは小さな2畑に植わっているのみ。どちらも6年くらい経つ畑で、そろそろ掘り時。育った葉と、だいぶ年季の入ってきた屋根(畑には1畝ずつ屋根や壁を付ける)を見ると、本当に終わってしまうのだ、と実感する。(牡丹・芍薬はまだ続行)
添えられた説明文も「そうそう」と、馴染みある説明で、嬉し悲し。


睡郷沼のぬし 06/8/5(土)
海さま>
先日は書き込みどうもありがとうございます。下のお知らせに少し書きましたが、暫くパソコンが殆ど使えない状況でしたので、携帯の方からご連絡差し上げました。お車、愛着あったでしょうに、故障は残念でしたね。新らしい車はだいぶ慣れてきましたか?車種とかお聞きしてなかったので気になります。またよければ写真など送ってくださいね。&いい場所あったら情報お待ちしておりまます。

うみ 2006/07/05(水)
おひさしぶりです。お元気ですか?今年の3月に車が故障しました。少し無理をして車を買い替えました。以前ほど新鮮味はありませんが・・・。

睡郷沼のぬし 06/6/23(金)
お知らせ
少しの間、更新ページを移動します。(管理人(私),少しの間この掲示板での更新が出来なくなるため)
http://sky.geocities.yahoo.co.jp/gl/yorunoawaino/  メモ出来る時間があるときなどはこちらをメモ代わりに使おうと思います。

...と、ここまで書いて仮保存していた ちょうど・・&ちょうど矢先、
パソコン(と中のファイル)そのものも瀕死状態になってしまい、そういう意味でも暫く移動。 ”こんな時”になって…。あぁ。一どきにいろんなことがマンガのように転がって来すぎて、落ち込んでしまう・・(周囲を含めてガタガタ)。が、落ち込むという行為は自分の弱さなのだろう、”とは”思う。
また、孤独さもあらゆる不安に拍車をかけるものだが(自分)、そんな孤独というのも、結局は自分が原因で。


それと前回少し書いたPCメールの行方不明のこと。その後、消えないように知り合いのメアドを登録しておくなどで対処してみたけれど、この数日のうちに別の不具合からパソコン操作そのものがままらない感じになってしまったことや、どちらにせよ暫く不在になるので、PCに来たメールはサーバから直接閲覧することになると思います(=ソフトを介さないため広告との見分けかなり困難)。ですので、不在中のご連絡は携帯へのほうが吉かも。
(一応、ヤフーにyorunoawainoのメアドがある(グイン稀)ので、 応急策でヤフーメールを私のケータイに転送するように設定しておきますので、連絡の際などにご利用ください )

睡郷沼のぬし 6/16(金)
◆水玉。植物の一部のよう。・・いやある意味これも彼の一部なのかもしれないか。
◆大きな夜の小さな花火。ひっそりひととき闇を照らす。
◆花真珠(包み守られた水の珠)  ◆ウンモンスズメ(緑の柄の羽根を持つ。写真では伝わらないのだが、苔と葉の中にいる彼は、まるでそこにあるべきもののよう)。画像左下の個体は肉眼ではやわらかな木漏れ日のような羽根を持っていたが、自分には「それ」が撮れなかった。

気づくととても近くにもう一匹いた。腹の具合から見ると♂♀だろうか。広い広い空の下、こんなに近くに仲間がいたということに、気づいているのだろうか・・
雨
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蝸牛
(←こちらは1ト月ほど前の写真) 写真右)自分の撮った写真というのは変なもので、先日整理するため開いたまま少し考え事をしていたら、写真が動いて見えた。写真の向こうに、撮られた時のリアルな景色を再び見ていたのかもしれない。自分のいる場所はどこなんだろう、と思ってしまう瞬間。孤独な浮遊感。

左)(上は写真 下は絵(写真を撮るまでに時間が経ってしまって残せなかったため))コーヒー。クリームを入れたら、カタツムリになった。「ぁ、写真・・」と思っているうち変形したり目玉も弾けて、姿が消えてしまったけれど。うまい具合に渦になったり、二つの気泡が細く繋って蝸牛が浮かび上がったひととき。
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前回の補足。
◆野焼きの焼け跡で拾った種というのは、野原で花を見つけ種をとろうと思って秋を待っていたのだが、ちょうど種が実る頃除草のため一面焼かれてしまったので・・。
◆二枚目の画像を再度乗せたのは、描き直したのではなくて、説明のため。
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お知らせ 最近PCに頂くメールが行方不明になることが多いようです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。


睡郷沼のぬし 6/10(土)
絡まりあって縺れて出来た繊維の暗がりは、本当は、残りなく、細かな細かな道のかたまりでもあるのかもしれない。
幼い頃、どうしてもほどけずに私がもみくちゃにして捨てかけた糸くずも、祖母にかかると魔法のようにほどけて一本の糸となったのを思い出す。茂る蔓、毛細血管、くもの糸・・・
網の目のような山の中の獣道や深い農道(特殊な農道で、深い)に入って迷うのも好きだった。
植物の枝の間引きなども、物語が消えてしまうようで、寂しいと思ったっけ・・

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雫(撮影=携帯) 今まで気づかなかった。・・いや忘れたのだろうか?(脳の衰え著しいから)
夜に気づいたのだけれど、今年はえた竹の、だいぶ高く(数メートル程度)なり枝が出揃ってあとは葉が出るのを待つだけのものに限り、それぞれの芽の辺りにたくさんの露をつけている。雨の残り雫でもなし、水散布でもなし、夜露というわけでもなし、・・・その葉のない若木の下だけ、ぽたぽたと雫が落ちてくる。なぜだろう、こういうものなのだろうか? ごくごく若い木に限って、ということもあり、なにか生命力が結晶になって零れ落ちているように見えた。
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虹琴
 ぁ・・・突然だけれど。以前ぼんやり浮かんだ虹琴。(05/02/11)  この虹琴を打つためのマレットはたくさんの雨粒がいい。


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人は、一生のうち、「自分だけのために」使える時間というのは、どれだけなのだろう。本来は、ほんのほんの僅かなものですよね。自分はもう本当に取り返しのつかないくらい、使いすぎてしまいました。

知り合って10年程の、あるつながりのある数歳上の女性。殆ど付き合いはないがたまに連絡を取り合う。同じ悩みを抱える方で、話の中でそんなことを久々の電話で少し話す。他の人には言えない内容の電話だ・・。話して何かが解決することは、まずないけれど、それであっても、ありのままの話を交換できる人がいるというのは貴重である。
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近い人に、そういうありのままをそっくり言えないのがちょっと辛い。言えなければ当然二段階上の状態を求められるはずだが、実際と取り繕いの差分を埋めれずにいる。…が、苦しんでいる人達を前にして言えることもない・・・。自分でなんとかできなかった自分が悪い。

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薄紫色の夕顔(瓜科のユウガオではなく「夜顔」の方)や、野焼き後の焼け跡で拾い集めた朝顔?の種(微妙な色合いの。派手さはないが見かけない色形で種子の殻も少し特徴がある)や、茂みを彩る朝顔の種などを取っていた物を少し前に実家で少し撒いて貰った。夜顔の種は以前買っていたもの。夜に咲くこと以外に、芳香もあるとか。
家の裏の垣には毎年白い朝顔が咲く。誰が植えたかわからない(それだけ古い)。一度朝顔は途絶えていたそうだが工事で掘り返した際、また生え始めたようだ。私が小学の頃などそこに色付きの朝顔を植えたりもしていたが最終的に再び白のみとなった様子。

そこに撒いてもいいかと聞くと、「いいけど白に負けて咲くかどうか」と別に撒いてくれた。件の垣にも試しに少し撒いておいた。ここへきて、今年は今いる場所では育てられそうになくなったので実家に撒いておいてよかったかも。
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HADAKAのCMの曲、独特な音階と澄んだ声、散らばる弦の音が、漂うような雰囲気で惹かれる。そのうちタイトルがわかったら最後まで聴きたい。(ソフィーナのHPでも今フラッシュのBGMで少し聴けるようだ )
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(3月末画像リンク切れ修正)


ぁ、「2枚目の中段2つ目の首の束〜追記。」・・・・・と下で書きながら、違う場所に追記していた・・・(微妙に位置修正)

睡郷沼のぬし 5/25(木)
一日の3分の一すら狂った状態をどうも出来ずにいる現状と、それを一気にどうしても封じ込めなければならない状況に直面している現状の狭間・・・ どうしてこんなことになってしまったんだろう。 そんなしようもない狭間なんかで何もかも浪費してしまうから大切なことがみんな消えてしまうではないか。 悲しいことだ これでは生きてるべきじゃない。先日の独り言のように、ほんと自分は過去に死んでた人の亡霊か何かだったりするのじゃないのか・・・? ああ、牡丹だっていさぎよく首を差し出しているのに

(2枚目の中段2つ目の首の束は牡丹。簡単な説明追記。↓)

睡郷沼のぬし 5/24(水)
1枚目
上段 ◆芽 ◆ 明け方 ◆ 苔の海に落ち浮かぶ ◆ 花の星空のしぶき
中段 ◆雪ノ下 の下の秘境から手招き ◆脱皮◆散り前牡丹・天衣◆外
下段 ◆管 ◆ 子 ◆ 奈落 ◆ 冬を越し、次の夏を待つ蝉の亡骸。ごく薄い色。これが土から歩いて出足り、飛び回っていた時があったなんて  ◆ 夕 ◆ 意味ある混乱
露
2枚目
上段 ◆クラゲ ◆ 拡大 ◆ 血管 ◆ 血潮 ◆
中段 ◆トクサ ◆首(売り物になる根に負担をかけないため牡丹の花はちぎられて捨てられる)◆うちのかつての井戸枠 この石にどんな記憶がこもっているのか・・・◆襟元 (一枚目の天衣)◆
下段 ◆並んだ・赤白黄 いつの間にこんなに大きく?木を見て時間の川に気づく。色んな物を堆積させ、同時に悲しいほど持ち去っていく流れ ◆牡丹と入れ違いに芍薬の季節。(牡丹は見かけと違って弱いので芍薬の根についで育てる。そのため牡丹・芍薬が一緒に栽培されている事が多い)
◆ 風、種、くもの糸、どこまでも繋がった果てしない物語
天衣

睡郷沼のぬし 5/24(水)
むしろ逆だとわかりつつ「あの時自分が消えてたら周り囲はもっとずっと幸せになれてたのに」などと考えたり。死ね死ねと自分の中から聞こえ始めたり。そうして次第に、生きてるのか死んでるのか分からなくなってきて。ふっと「自分はとっくの前に死んでいて、今生きてる気がしてるのは本当は醜い邪気や生きたい欲のかたまりが集まって出来たカゲロウだったりはしないのだろうか、などと考えていたら、とてもとても寒いところにいるようで、分も誰だか忘れて行くような気持がした。なにより孤独で寂しく、この先世の中でたった一人のように思えたり。

夢の中で自分に罰を与えている時は、確かに悲しいけれど実はそこには自分なりの救いがあるのだろう。けれど、その↑「孤独」にはそういう救いがなくなる。底なしになるということ・・ある意味あたたかな罰はそこでは意味をなさなくなるんだ・・・それこそが一番おそろしい

睡郷沼のぬし 06/5/24(水)
痕跡 前回の携帯写真。  いつも思うのだけれど、世の中の全て・・・・石のつぶての一つにすら、長い物語が潜んでいると思うとただならぬここち。

そんな時、偶然図書館で、まど・みちお氏の「遠いところ」に、ささやかだけど気の遠くなるような一編の詩を見つけた。(p94 地球の〜)頭の何かがリンクしたような。
この画集(詩集)、後半の作者のリアルなノートも素敵。

睡郷沼のぬし 06/05/9/(火)
携帯写真・・今日は載せられないのでメモだけ。何日前か、道端の植え込みに、カーネーションの花束がさしてあった。いったいどんな人がどんな理由で・・

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善意というよりも、きっと罪滅ぼしか何かの気だろう。献血車が来ていたので、用事の道順からそれて受付へ。血圧はギリギリok。貧血検査は、オモチャのような検査方法。ダメな血だとプクッと上がってくる。結局献血できないといわれてすごすご引き返す。献血とかするんなら、まずまともになれよ、資格なし却下、ともう一人の自分。


睡郷沼のぬし 06/5/4(木)
自分の足を何度も打ち付けて痣を作っていく夢が印象的だった。自分が嫌で憎くて力任せに打つのだけれど、上手く打てなくて、ますますやみくもに打ち続ける。あざになると少しほっとして、どんどん痣を広めてゆく夢。 でも、現実の中でそんな衝動はよくあって、度々イメージしてしまう。 精神的な病気に関しての特集などを見るとよく自分を殴っている場面も出てくる。中には自分で眼をついて失明してしまったりした人も。そうやって冷静に見ると解決の逆をいくこと、不自然なことだと気づくけれど、また逆に、自然なことだったのかと安心したりも。

----最近の入り混ぜ留記・・所々また整理して書きなおす予定----
夢 あざ
(どれも失敗作に) 使えない作務衣 使えない帽子 使えないコート 
23月
版画
変光星  私も物理の世界の一個にすぎぬこと
個人的日記…5/2数年間逆さま人形 4/30千日前長野先生肖似 29辞典  28喉から血 かりずまい建物工事に困  同級HP 凹 デザインフェスタに最初に出た時の服、間違って捨てたのか?いまや、出たことすらも疑わしい。
村田エフェンディ ・ ワニ
宙の名 − 池澤.星界からの〜  の偶然
オミナエシ 母子草 白黒カラー
コクヨ 宇宙のハードカバーノート 独特の曲線カットや、星の方の罫線(彩度の低い虹色)画魅力日記を「日記帳」に書きたくなるようなノート。*
夕顔の香り
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・・・・・と、無差別とりあえずの覚え書きを書いてみると、「日記」をつけたい気持を強く感じた。ネットのメモとして書きたいことと、自分的にメモしておきたいこと(or公の場には載せたくないこと)、というのは、存外に開きがあるのかもしれない。
(日記をつけていた頃は、さらに 「日記帳に書いておきたいこと」と「記録として(自分に対してだけに?)きちんと残しておきたいこと」との間にも開きも感じていたけれど・・)


ぁぁぁ・・・
睡郷沼のぬし 06/3/28(火)
 菜・住職    浮かぶ
左)
野菜売り場にて、菜の花一袋100円。食べたいのと瓶に挿したいのが合わさって、もらって帰る。体の要求と心の要求の天秤のことについてぼやけた頭で意識徘徊。

次の日、放置していた袋を開けて、一本挿す花を決める。取り出してみると5,6本どれもくの字に少し曲がっていて、なんだろうと思ったのだが、切られた菜の花の茎が、なおも光を求めて伸びようとしていたのだろう気づく。
それで、今度は、自分と、菜と、(あと世界も?)の間の天秤のことについて、ぼんやりと・・。

しなびた菜の蕾は水切りで驚くほど生き返りあっという間に花を咲かした。菜の花と薄紫の大根の花が隣どうしに植わっていたうちの畑と春の風を思い出し、積もった時間にうずもれる。

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住職スタイルというのに、昔から意味無くどこか惹かれたりした。そんなイメージの物があれば着たくなりそうだけど、出歩かないので見つけない。夏の透ける感じも好き。薄物はおもちゃミシンで縫えないのが残念。(黒い線は縫い目の透けたとこ)
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(右画像)
夢像。働かぬ頭で寝床で半分寝ながら読んでいたからだろう。「ぐるりのこと」という本の中の「もう問いもスタートも要らない、ゴールは、辺りに充ち満ちているのだから」という行を見ながら、こんな夢?を同時にみていた(絵)。
たくさんの綿毛のようなものが、茎から切れて、そのまま真っすぐにゆっくり空へ上がっていくところ。

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[鏑木清方随筆集](*多分)。 数十年分の随筆が正月から始まり季節を辿るように季節軸に並べられているので深く長い絵巻物を見ているよう。たまに挿絵があったり、雅号が決まったときの話なんかは意外。

「ちょっと前までは良かったなぁ 前とは言っても江戸くらいのことだけど」とか「時代が変わった」的なコメントを読むにつけ、今の世界にもお連れしてみたくなる。「昔のように素足が見れなくなった」と書いていた彼だが、しかし現代の素足の姿では引くかもしれない。

睡郷沼のぬし 06/3/21(火)
プラネタリウムといえば、以前からのかすかな・・ある意味野望というか、行動には至らないくらいの微弱な創作欲として、この星が広がる天球に、自分がこしらえた星座を新たに埋め尽くしてみたい、・・・つまり、もう一つの星座版を作ってみたい、という気持ちが、かすかにあったりもした。でもそれはきっと驚くほどの熱意や労力・集中力がいるし、実現はされならないだろうので、かわりにここにメモすることで半分よしとする。

星座ごとのストーリーも作って、長い時間をかけて完成させるようなことを、自分がやってみれたらいいなと。 で、最終的にそれをプラネタリウムにして、その中で、そのストーリーにまつわるオブジェを並べたりしてみたいものだ。
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先日、学研のプラネタのことを書いたら、欲しい人が他にもいたらしく、それを聞けたこと自体が買うことより自分を満たせたかも。その人が先に手に入れて楽しんだとしたら、自分の楽しみも一緒に果たせるような気が気がちょっとした。

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だ乱丁だろうか、それとも意図的か?「だ」が転がっているけれど・・。梶井基次郎「過去」の5段落目。乱丁だとしたら、全国のどこかに兄弟が散らばっているかも。

目印は、「筑摩書房 日本文学全集35 梶井基次郎 堀辰雄 中島敦 集」。昭和45年発行 第何版かは不明 黒地に金字・裏表紙に一円玉の草のようなワンポイント。図書館の。

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足が痛くなり始め、何の筋肉痛かと思えば、絵を探したためらしい。たったあれだけで・・・?何日か前、引き続き、ある絵を探していたのだ。結局、絵はみつからなかったが、段ボール箱を掘り下げていたら、昔買ったままの積読本がたくさんあって寄り道。

「蕁麻の家」* 小説として手法による効果的なカット・デフォルメなどの強調はあるそうだが、壮絶な・・。
萩原朔太郎の長女ということで、ちょっと、「詩人なんて、はぁ」と言う気持も沸いたりするけれど、誰にもどうにもならない成り行きだった気も。彼女のその後の生き方(これもすごい。とりあえず、葉子氏が晩年輝かれていたようなのが救いだ)や、色んな側からの感想などを見てると、一瞬大きな希望を感じたりもするのだけど、同時に絶望や虚無感が入り乱れて人生というものが無性に空しくなったかも・・

なんだか、結局私の頭に残されたのは(本の中には出てこないけど、) お父さんの「人生は過失なり」という言葉だったり。

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拾うアンテナ。(終着点がしょうもないけど、たんなるメモ。とくに意味はない。)

つねづね、人が持つの「アンテナ」が張られた時に、それが拾うものだとか引きつけ・導かれる力とか偶然のめぐり合わせや発見力の妙?を感じる(逆に張られてない時は全く引っかからず)のだが、そんなのの証明のようにして、色々結びつき、最後におかしな言葉が絡まって止まった夜。

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本関係のページから、あまり意味なく高圧送電線関係の興味へ流れていった。「いらくさの家」の中には、萩原家の近くにある大きな送電線が何度も出てくるのだが、ストーリー中、それに登って自殺を思想になる場面等もある。私の今いるところの近くにも送電線があって、私もそれに登って死ぬことばかり考えていたことがある。見るともなく電線のページを見ていたのは夜中で、ちょうど通販番組をやっていた(全く見てはいず、流れていただけ)。さっきからなにかがカチッと合う感じがして、不思議な感覚があったのだけど何なのかわからなかった。暫くしてやっと気づいたのだけど、「高圧センジョウキ」のCMを体が無意識のうちに頭のどこかでずっとキャッチしていたようだった。高圧線と高圧洗浄器‥‥。だからなんだというわけではないけど、そんなものまでアンテナにひっかかってきた、というだけのメモ。


睡郷沼のぬし 06/3/15(水)
何も出来ない日がおそろしく続いてしまった・・長らくぶりで胡粉の瓶をあけたらドロドロに腐っていて凄まじい雰囲気と悪臭。
改めて溶き直す。ちょうどそんな次の日の今日、姉の電話で「人形作ってる?」と聞かれた。言葉の裏には無意識にでも色々含まれているのかもしれない・・以下、最近メモしていたものをまとめて。


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正気がおそろしく続かなく、ちょっとした切れ目が即洪水。やっと最近、たとえば食事を一日おきにするなどして極端に切れ目を無くしたりして、意識を繋いでみたり。逆にいえばそんなことをしないと繋ぐこともできない感じで、大切な用事さえも、そんな中でしか出来なくて困っていたり・・。そんな風にしても、僅かにこちら側に帰ってこられるくらいで、すぐにかき消されてしまう意識。

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夜中に突然トマトに取り付かれた・・食感などが湧き上がってきて、とても欲しくなって。イメージはさらにイメージを引き寄せてふつふつ。夕方プチトマトを一パック。 触った時、口に入れてかんだ時、飛び散る水分・・。帰り道にはもう拭き拭き食べていた。不思議なくらい何とも美味しくみずみずしく極上の果実のようで何か取り付かれたように意地汚くがつがつ。帰るまでになくなってしまった。
わらかい瑪瑙(メノウ)とか木になるルビーに思えた。
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15年も前に亡くなった家族がありありと夢に。そういえば、「記憶色」という言葉があるが・・。
記憶も時間と共に、生き生きと、本物よりも本物と化してくるのかもしれない。数十年後に自分が生きていたとして、自分がどんな場所でどんな夢をみているか考えてぞっとする。

自分が現実に生きているのか夢で生きているのかわからなくなる瞬間。あちら側に出来たもう一つのストーリーは、しかしきっと黴の胞子が空気に描く虚像のようなもの。

土曜は鬱気のせいか、怠けのせいか、頭痛のせいか薬のせいか、眠りのツボを押してみたせいなのか、どうにも起きられずそんな夢を見た。起きたら3時過ぎで、TVを付けたら、蟲師をやっていて、終わりの少しだけ見たけれど、昨日(11日)は星の話?で映像がとてもよさそうだった。綺麗な映像のときに限って見逃してしまう・・がっくり。放送が一足早い関東なら、関西の録画代行を申し込めたかもだけど・・
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星といえば、大人の科学が、色々出てきている。どれも作りたい。二千円弱のプラネタリウムなども魅力的。ただ、一人で作って置いてもつまらないかもしれない・・ 参考アドレス* *
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尾崎紅葉の病骨録。最初短編かと思ってページを繰ったら亡くなる一ヶ月前とかのノンフィクションだと気づき、一度閉じたが結局再び開くことに。先の運命を知っているのでいっそう、[其のニ]の五や六が切ない。希望通り50,60まで生きれていたらどんな物を生み出していただろう。
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縮小(拡大)以前古本屋でなんとなく買った季刊紙「銀花」を見ていてすばらしい本(人)を見つけた。ひとり工房の川岸冨士男氏による”季刊誌「翠花」”という一部限定手書きの本。1980年代ごろ。一年くらいかけて一冊ずつ、計10冊作られたらしい。写真は銀花誌上で特集された写真をさらに私が写真に撮ったものなので、質感が伝わらなくて残念だか、手触り感(直接見たわけではないが)や、色彩や内容のチョイスなどすばらしい。翠花の中の「写真」風の部分も全て氏による手描きで、パソコンのフィルター処理画像のようなのまで手描き。

こんな、詰め込んだ感じのものが好きで、小〜高時代など、「○○新聞」(○○=伏字)など、遊びで作ったことなどあったが、当時(興味が最大限に伸びたり集中力が持てた頃)、リアルタイムで見ていたら、もう少し今の自分は進歩してたのかなぁ・・。 (参考URL * *)   

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以下、ひな祭りより前に書きかけたのだけど、月日は早い。 雛人形、しまうのをもたもたしていると今期が遅れるというのは、自分で証明されそうである。うちはとりわけ長く出していた気がする。
だけれど、せっかくのもの、せめて1.2ヶ月くらいは飾っておきたくもある。

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雛に惹かれて手にとった「雛がたり」という小説の次にあった「国定えがく」に寄り道。家族のやりとりや物語の散りばめ方が色んな意味で切なく切なく個人的ツボかも。合わせて「ニ、三羽――十二、三羽」に寄り道。展開と、登場人物が作者と重なる感じ(実際は違うのかも知れないけれど)が好き。
なんだかんだ言って、HPでもブログでも作品でも何でも、最終的に作品より作者の存在を求めてしまうようなタイプだったりするのかもしれない。
こうやって現実逃避をしている罪の念をじりじりと感じているので、あまり自分にも曝けたくない寄り道だ・・。だけど、寄り道できただけ、意識が保てた分、まだ良かった、というのも確かで、(また、言い訳でもあるかも)。
ところで恥ずかしながら、以前から何だろう?と思っていたけれど、”えがく”の意味がいまだにわからない。馬鹿かも。

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以前古本で見つけて本棚にうずもれたある詩集久々に偶然開く。今逃げ込める本だった。特別あったかくも、寒くも、明るくも、突き刺さりもしなくて、色恋でもなく、また変に尖ってもいない感じ?だけど深く暗く響くような。

1930年生まれのかたの「影絵」という詩集で32歳ごろの本。この方の本は後から2003年に出された詩集を古本で見つけて期待しながら買ったけれど、その研ぎ澄まされた感覚は自分にはまだわからないのかもしれない。ただでさえ精神年齢低いのだから。(簡単に考えて)以前の作品を越したものの?はず。目が文字だけを追って上手く読めない自分が情けない。結局新しい方はまだ棚の奥。いつかそれをちゃんと読めるだけの自分になれる時ははたして来るかどうか。
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他の絵を探していて、たまたま見つけた鰭崎英朋の 蚊帳の前の幽霊 参考 @幽霊ギャラリー* 

探していた絵は結局見つからず。蚊帳の前の幽霊は検索中にこちら*  で見つけたのだが、以前から好きだった絵も幾つか載っている。
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自費出版図書館(*)。自費出版の図書館・・・もう少し大規模&システム化すれば便利そう。


睡郷沼のぬし 06/2/16(木)
↓カレンダーのリンク先、もう少し見やすいところに変更。こてこての和風な感じの絵柄も好き。農家の出なので農暦もなんとなくなじみ深く。

睡郷沼のぬし 06/2/16(木)
私が生まれてから今日(昨日)で11000日目らしい。たまたま計算できるページを見つけて入れてみたらそんな切れのいい数字が出てきた。○○日目は何月何日か、という計算もワンクリックで出て来る。

ここ何年か使っていた二十四節気・七十二候歳時記カレンダー(小)(月の満ち欠け 句や歌など、季節の絵柄と共に色々と書き込まれている)が、今年は用意できなかったので、せめて月齢カレンダーでもプリントアウトして使っておこうかと思い検索。月齢と潮の状態が載っている月齢カレンダーを見つけた。暦のサイトらしくて、暦に関する様々な項目が用意されている。それで色々開いていて「日付の電卓」を見つけたのだ。この10年は本当にひどい時間の使い方をしてしまったから、11000などというそのような大きな数字を見るのは苦痛である。半分取り戻したい気持だけれど、生きている以上、大きな空欄とか後悔とか、そっくり抱え、含めて、進んでいくよりほかないのだなぁ・・

睡郷沼のぬし 06/2//14(火)
どうにもだめだめだめ・・・

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真夜中ゴールデンタイム・・・

「怪〜ayakashi〜」という番組で古い文学等をアニメ化した作品が数回に分けて三作品放送されるようだ。大阪は月曜。
泉鏡花の天守物語がアニメ化されて放送がはじまると知って放送を見てみた。公式hpの予告(あらすじ)を見た時は「興味あるのに絵(キャラクター)がちょっと・・・」と思っていたのだが、実際の放送を見たら綺麗だった。
天守物語は以前読んで「いいなぁ」と思った本なのにさっぱり忘れていて自分の脳が虚しい。さておき鏡花のアニメ化、他の作品もしてほしいなぁ・・

↑前作は四谷怪談だった。何度か夜中に途中からその番組に遭遇して、最終回でやっと最初から見れた。ただし「ながら見」だったので途切れ途切れ。終わりかけになってやっとまともに見たらドラマチックなラストで衝撃だったかも。ちゃんと見ておけばよかった・・

そして土曜の夜3時頃は蟲師がやっている。これは背景映像も綺麗。色合いもやわらかく、竹や桜や雪が散る場面などはとても幻想的だった。先ほどついでにサイトを調べてみると既に15回以上も放送されていたなんて、もっと早く気づきたかった。なんとなく平行線な?感じもよい。孤独な人が夜中にこんなもの見てると、つい何かに足をすくわれたり開くべきではない扉を開いてしまいそうな気もする・・時代も次元も曖昧で主人公も放浪しているのでなおさら・・

あと、その蟲師のある夜、少し前に地獄少女というのもやっているので、それも見るともなく見てそのまま蟲師へ移るのもいいかも・・・。主人公の声も魅力的。

最近やっとそれどれの放送時間帯がわかったのだが、しかし続きものっていやだなぁ。小出しされたものを毎回こまめに見るのもなかなかだし、続けば終わるのも寂しい。

あと、三つとも、エンディングも耳に残る感じ。
&古風テイストのアニメ流行ってるのか・・・?

睡郷沼のぬし 06/2//5(月)
鬼もうち  福のうち・・・


豆を撒いて退散させるのもよいが、お供え物として豆を撒きそれを食べてもらって強い力で色んな事から守ってくれる、という言い伝えでもいいなぁ、と思う。

実家では今年は念入りに豆を撒いたとか。一人暮らしでろくに友達づきあいもしないため、行事ごとは街角やスーパーやメディアで間接的に触れるだけになってしまった。日々の起伏は混ざり合い引き伸ばされ。自分と鬼との境界ももはやない。


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実家の家族が行方不明に・・。部屋の中を歩くのもやっとくらいの感じで、かつ、何十年も外泊などしたことのないような人が、突然消えて大騒ぎに。結局無事帰ってきたけれど、話や証拠をつなぎ合わせたりして、事の全貌が明らかになると、本当にラッキーだったと、運の強さや親切な方々に感謝と驚きの気持。

最終的にヨミというところの警察から連絡があって無事が確認されたのだけれど、瞬間「黄泉」が連想され、ドキリとした。とともに、ヨミで見つかった(から帰ってきたという)だけに、もう安心だと大きな安堵を覚えた。

元々あまり健康ではなくて、車でもあまり遠くへ行けなかった人が、道に迷いながら驚くほど遠くまで行ってきたらしい。そんな「大旅行」がたった一人だったのが、少しもったいなかった気がした。(もちろん今回は旅行どころではない状態だったのだけれど、事なきを得た今なのでこんなことが書けている)

ただ、私がもっとしっかりしていれば、本当は家族はもっと幸せになっていただろうと思うと、すごく悲しくなる・・。鬼がいるとするならば、やはり私そのものだと思う。自分を消したいかも・・


睡郷沼のぬし 06/1//29(日)
追 エンボスの型の図案など

睡郷沼のぬし 06/1//29(日)
刻 篆刻風の「夜境」。左と上。  それを作ってみるきっかけになった真ん中の2つは「幸子」という印を彫ってみたときの図案。幸の字体を調べてみると、下の黒字のものなどがあった。左側のが最初に本で見つけたもの。この自体は全体的には好きな形のだが「幸」は、舌を出しているような顔に見えるので、人にあげたりはしにくい・・。他の物もあまり「これ」というのがないなぁ、と思っていたけれど、実際に描いてみるとアレンジしやすい文字かも。円で囲むと寄り添う二つの文字、という感じになるし、幸子という名前を羨ましく思った。それでなくともいい名前だし・・
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数日前、12/10に書いてた香りの名前が偶然わかった。でも、それを検索してみたところ一件だけ個人サイトの記述の中に名前があっただけで、その存在は殆ど消えてしまったようだ。

偶然は重なる物で、今まで街で出くわしたことの無かったその懐かしい香り(に酷似した)に初めて出会ったかも。それはスーパーですれ違った人で、付いて行きそうになった。 千載一遇の機会ではあったのだけど、突然「これは何の香りですか」と聞くわけにもいかず、去っていくのを目で追いながら 残念がった。もう少し雰囲気が違う人だったら聞けていたかもしれないけど・・。やっぱり恥を捨てて訊いてみればよかったと、後悔したり。「でもどこかで手に入る香り」として存在しているとはわかった。
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話と香りは変わるが、かなり前からある資生堂のホネ石鹸(ルビー色の透き通った石鹸)の匂いも好き。なつかしい。検索してみると「懐かしいお母さんの香り」とか「古い鏡台」的なイメージが多いようだけれど、うちは父が使っていた。化粧っけの全く無い家庭の中、この石鹸が浮いていた・・。(父専用。においがいい、といっていた。) 当時(小中頃?)の頭では、「石鹸に500円もかけるなんて・・」とも内心思っていたけれど、今思うと、普段の生活が質素なだけに、それくらい全然よいではないか、と、当時の自分の心に言いたい。 その父も今はもう匂いを感じることは出来ないのだが。
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睡郷沼のぬし 06/1//24(水)
 
 眼鏡
割れた眼鏡がちょくちょく引き起こす小さな騒動   割れている。壊れているのとは微妙に違う
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割れた赤い瓦の話を聞いた。昭和22.3年ごろ?地元の赤い瓦屋根の家に発狂した人が火をつけて全焼したらしい。その瓦は砕かれて、島の道に使われた。そして今その上にアスファルトの道が出来ているのだとか。物事は鎖のように、ずっとずっとつながっていくのだなぁ、と思った。
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おもかげを見る力が人一倍無かったかもしれない。中高の頃などは、たとえば「これが祖母の若い頃だ」というふうな変化とか、「だれそれは誰に似ている」というふうに面影を重ねたり繋げることが出来なかった。また生で見たことのない祖父の顔も、数枚の(&不明瞭な)写真からでは認識できる像として掴むことが全く出来なかった。

変化を繋げられる力と言うのは何によって培われるのか知らないが、それを見る回数よりも様々な人や流れを見ることによるのかもしれない。
というのも、先日10年ぶりくらいでそれらの写真を見てみると、当時は別人にしか見えなかった若い頃、または幼少時代の顔が「まさしくその人」としか見えなくなっていたり、そこに祖父がいることも知らなかった大人数の集合写真から自然に「あら、こんな所に」と祖父を見つけたりした。

自分が時の流れを繋げることにこんなに時間がかかったことを考えると、祖母の葬式の時、額の中の写真と私のおば(祖母の子)を指さして「この人と似てる」といって見せたどこかの小さな子供は本当にすごい目を持っていたのだなぁ・・
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また、教室(裁縫)にいけず・・
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縮小(拡大)   
何年も前の写真。いくつか。背景は、明るいところでは見えにくいかも。田んぼの朝露。その他、空の写真など。左上から、鉄条網を伝う蔓。空の色。鱗雲(何かが一気に散って広がる瞬間のよう)。紅葉。大きい雲。雲の陰。など。◆これらはデジカメを使い始めた頃のもの。すぐにカメラの調子がおかしくなって、今の物を譲ってもらった。前のカメラは、調節もまったく出来ず、またその場で確認することもできなかったので、とても面倒だったが、しかし、デフォルトの設定のインスタントっぽい色合いやコントラストが、逆に良い特徴のように思える。今のカメラも性能は良くないけれど、比較的風景のまま取れるので、これで撮った物を、以前のカメラの写真に近づけようとすると、けっこう難しい。

睡郷沼のぬし 06/1/24(水)
96さん> フォローどうもありがとう。価値観は作者が決めていいとすれば、やっぱりひどいものです。せめて自分の中で「いいなぁ」っていうものくらい作ってからの話ですよね。自分でも気に入らないから、このまま作ってても、と、いっそう先が思いやらて。・・・でもそれより、何か物を作れるような状態ではなくなってきつつある方が問題かも

睡郷沼のぬし 06/1/15(日)
もう1つ、寄せ集め写真の「西風の木」のメモが抜けていたので、14日分に補足。(一度データが消えて書き直したので、書き忘れだらけに・・)
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このところ、時計の針をもどすことが出来たら、もしくはこのまま全てを凍結(or消すことが)できたら、などと、そんなことばかり考えて暗くなっていたけれど、撮った写真は、流れの中でしか見ることが出来ないようなものが多かったかもしれない。撮った物を見て、「そうなのだ」と、自分を納得させたりしている。
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デジカメは冬は厄介。冷えているせいか、すぐに電池が切れてしまい、撮るどころではなく・・。島の神社の苔等ももっと撮りたかったが、数枚残せたのが精一杯。

睡郷沼のぬし 06/1/14(土)
1枚目のリンクの間違い、また、4枚目の写真の描きこみ&説明が途中で忘れたままで終わっていたところなど、少しだけ修正。

睡郷沼のぬし 06/1/14(土)
さみし悲しかったり、非常に困ったこと、またありがたかったり、ほんとうに幸いだったことの、 ないまぜになって雪に埋もれる。全てあわせて、吹き溜まりの陰のグレーの色あたりだろうか・・

まとめ書きな分、あったこと感じたことをあれこれ垂れ流さずにおられそうだ。もっと個人的な雑記帳がもう1つ必要なのかもしれない(私には無理だが)。

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最近の島の写真を、いくつか。メモは後ろにまとめて
縮小(拡大)   

風の音
風色 音色 (これは、録画機能で撮影したもので、元は音つきの動画。)
葉のざわめきと共に、絶えず変化するこの影の形と光の色合いは、見飽きることがない。


流れ

一輪  
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3枚目 左上から
◆竹の横の小屋(その、廃屋の話のところ)のツララ
◆ざわざわ サッシがない分、届く物は直である。寒い(暑い)けれど。
◆神社の裏のヤツデ。とけ残った雪が冷えて出来た小さな塊が、なめらかなガラスのようだった。
◆しずく凍る寒さ
◆廃墟・廃屋について思ったこと。……これ(右)は、まだ一応使っているけれどうちの敷地内の建物。これまで、廃墟というものは私にとって、ひそかにかに息づく封じ込められた過去の記憶、残留、その他様々な物を感じて、強烈にひきつけられるものであったが、今回あらためて、自分の記憶の残っている所が廃屋のようになりつつある場所にたっていると、廃墟というのはただの寂しい抜け殻でしかないような気もしてきた。「これは、違う、全く。感じるなら生で、在りし日のそのままを感じてほしい(&たい)」と、そんな風にも思ったりした。未来からでも過去は再生できないのだなぁ・・
◆西風の木。この日も西風だったと雪が教えてくれた。海から坂を登ってきた風が長い時間をかけて、木をこんな姿にさせたのだろうか。
◆西風の木・・・その2。明け方の空は色々。
◆積もり具合が、枝に咲いた花のよう。
◆こちらはうちのヤツデ。門口に植わっているのは、人がたくさん来てくれるように、との願いだとか。 ◆長い間生きてきた苔の上の、つかの間の雪。朝日がさして光った。(神社にて)
◆赤白隣り合わせで咲いた椿
◆今年は(柿)ゆず、橙とも鈴なり。裏に橙が植わっている。枝のしなるほどに実った橙のとても大きな沢山の実を見ていると、「いつのまにかこんな物を地面やなにかから作り出してしまうところの植物というのは、不思議な物だ」と思ってしまう。手品のよう。

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1枚目
◆「こんな感じの物を作っている」ということで、人形を家に持って行った。「作るのはいいが、とりあえずもっと美人につくらないと。人が見て『あぁ、いいなぁ』と思うものでなければしょうがない。(=こんなんじゃサッパリ駄目)」という意味の言葉をもらった。忌憚ない意見は貴重である。
個人的には美人とか作る気はないけれど、上のような言葉がぱっと出るということは、やはりそれだけの物でしかないということだろう。なぜなら、もし全然美しくなくても、何かしらの魅力や力を持っているものなら、そういう言葉はでないだろうと思うので。
(なんだか、そんな物を持っているのが嫌になってきて、その場で壊して捨ててしまいたいような気になった)

そんなわけで、人形など作るのは早めに辞めた方が賢明なのかもしれない・・
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4枚目◆雪の舞う空の下 なぜか一輪だけ花が咲いていた。焼き初めを終えた昼、(色々の)鬱屈とありがたみを抱えて歩いた長くて短い道すがら。

睡郷沼のぬし 06/1
あけましておめでとうございます。
旧年中は色々お世話になりました。本年もどうぞ、よろしくお願いいたします。 全ての人(&その他)にとってよい年になりますように

睡郷沼のぬし 5/12/29(木)
(文字(=画像の長さ)が横長で読みづらくなってしまった・・)
 05のこりわずか
左)
これも次に出てくる石の続き。石路線はやめて貝で何か作ろうとしたのだが、途中でこれは「手紙」としていけるのではないかと、個人的な工作試作モードに変わってしまい予定外の方向へ。便箋は片側の端が細かく刻んであり、それを一度細く巻き上げてから、巻いた部分を貝の中に入れる。読む時引っこ抜いて開いていく。貝の封筒。。

で、結局何ももって帰れなさそうだな・・・。普段お世話になってるのだが。

中)
これは本当は姉に何か作ろうと思っていたのだが、こういうものだと色々問題がありそう(相手の「こんなのもらっても逆に・・・」、とか、好み、肌や服を傷つけたり)というようなことを考えたりして、やめることにした・・・。(今の彼女に似合うかもしれない」と思ったアクアマリンの小さなかけらがあったのだが、サイズと形がちょっと。写真はアメジスト。元は小さく砕いただけのもの。

右)
身内へ。写真の人物が、昔切手とか集めていたようなので、おもちゃのハガキと切手セットっぽい工作。(丘空というのはあるものの名前。ロゴなどは変えたけれど、よく考えたら「NIPPON」いうのは日本郵便の日本だっただろうか。「みほん」とは入れてあるし何でも使わずにとっておくような人でもあるので、間違って使われるようなことはないだろうが、どうせ使えないんなら、もっと切手からかけ離れた発想のものにすればよかった。値段(価値)とかももっと違う風にしたり。

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すす払いは帰る前にもう終わったらしい。うちに生えているわずかばかりの竹の葉を使ったそうだ。小さい頃は、もっと茂のようにみに見えた気がする・・。
年末年始は一人で過ごしていると、本当になんでもない日なのだが、人がいると、・・ことに田舎の実家となると儀式としてやっていかなければならない。以前は無駄なことにもおもえたしルーズなわたしには難しいが、建前としては節目というのは精神的にも大切なんだろうなぁ、というか、そういうとこをきちっと出来る人はやっぱり違うんだろうなと以前より感じるようにはなったかも。
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家に着て帰ろうと思っていたコートを自分で洗濯しら凄いことに。
で、お古のコートの出番になるかもしれない。元の持ち主は誰か知らないが男物。もともと着るものは広い方が好きなのだが、Mなのに本当にダブダブで、うごきづらい。「やっぱり生物の決まりごとはあるのだ」と実感した。安かったとはいえほとんど着る機会がないのがもったいない。 お古の衣類に対しては、身内や知人くらいしかあまり心を開けない?が、他のもの、特に本などは、逆に自分とは全く関係ない人の痕跡が残っていると、そこにひかれてしまったりする。たとえば本ならば、植物が挟んであったり、メモがたくさん書き込んであったり、手紙が入ったままになっていたり。なんとなく、心の友が出来たような思いがしてどこか嬉しくなるが、本当はその心の在りかはとても遠い。
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それよ急いで準備をしなくては。
皆様よいお年を


睡郷沼のぬし 2005/12/25(日)
クリスマスの日に、起きたらプレゼントがあるものだとしたら、毎日がクリスマスなのかもしれない。そんな貴重な毎日・一秒、だと思う。けれど、思うだけになってしまっている現状・・・。
そうそうこれも同じだ。いつだったかTVの相談で相談者が感謝だけでは甘えだと諭されていて、自分自身気にしていたことだったので、じりじりと痛く、目をそむけずにはおれなかった。

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先日ああ書いたあと、文房具屋へ行った際に安い付けペンがあったので買ってみた。当時(高校時代くらい?)使った時はどうして気づかなかったのか。とても書きやすいし、また第一に筆のような「線のニュアンス」が出せる。こういうものが今まで欲しかった。その理由などから以前は筆もよく使っていたのだが、便箋の細かい行に文字を続けて書くには筆は使いづらかった。試したペン先の中ではGペンが気に入った。漫画家さん等のようにちゃんとした線をちゃんとした色で書く必要は無いので、インクは絵の具で代用。代用だけれど、質感や色をを好みでなんでも選べるので悪くはない(+安いし)。
(当時は少し高価なペン先を買ったのが裏目に出てその分面倒で嫌になった気もする。)あとインクジェット紙などには性質上使えないのが少し残念だ。

近年は年賀状を買って出さなかった年や年賀状も買わない年が続いたが、ある理由とたまたまの運・奇跡から、年賀状を何年かぶりに作るに至った今年。年賀状にはそのペンは使えないけど、使えたら使えたで面倒だったかもしれない。。内心ほっと。「適当にやる」ことのほうが自分にとって本当はベターであろう場面は過去にけっこうあった気がする。(反面、適当にしてはならない場面で適当すぎるのだが・・・)

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21日のようなのは、そういう種類の物があるのか、よく知らないので、なんと呼べばいいのかわからないが、「回文」などのように呼び方があれば知りたい。便宜上自分の中だけで重文とか透文あたりで。
画才が欲しい。回文や重文が浮かんできた時、それを絵にしたいと思うことがよくある。その幽かなイメージがあるのだけど、自分には描けない。一行以下の画力って悲しい

睡郷沼のぬし 2005/12/21(水)

枯れたのみ?何処・・・ 毒の彼岸花しおれ 異国に降れば、甘き木と溶けたり
  →
 かれたのみいずこどくのひがんばなしをれいこくにふればあまききととけたり
  →
彼頼み居ず。孤独の悲願話を冷酷に振れば、天聞き届けたり


睡郷沼のぬし 05/12/20(火)
縮小(拡大)   自分の耄碌ぶりが悲しい。まだ一年も経ってないのに、作りかけていたものを忘れていたりとそんなふう。 前から製作中の胴体、最近「さて、手足を」と、作りかけていたところ、なんとなく過去の写真を見ていて足まで既に作りかけていた写真をみつけた(写真いちばん右。(大きさの比較は正確ではない))。しかもいつもとは関節を少し違うタイプに変えて作ってみていたらしい。そんな自分にとっては忘れにくいはずのことまですっかり忘れているなんて。たしか図まで書いて形を考えた気がするんだけど。この脳、この先が怖い。

奥のほうを掘り返すと、忘れたような作りかけのかたまりとかごちゃごちゃ。胴体が一つながりの物は使い道あるけれど、分割胴体の作りかけ(お腹などにも関節をつけた物の、形を固めた程度の段階とか)が複数混ざっていたりすると、どれがどの腹で、男なのか女なのかすら忘れてる。そういうのはもう使う可能性低いかもなぁ・・。作る形も少しずつ変わってきていたりするし、修正するよりは作り直したほうが早いかも。

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お正月前に帰省しようと思っていたのだが、もしかすると出来ないとか・・。理由の第一は猫。実は正月にはたぶん5年以上帰省できなかった。もしかすると10年近くも?それで、あまり考えていなかったのだけど。こういう時期は、猫などを預ける場所がすぐにいっぱいになるし、それでなくともシーズン中は高いらしい。私の乗りたかった夜行バス(高速バス)はペット禁止だし、運送会社なら片道4万もかかる(私の運賃より高い)。正月帰省の壁は厚い・・
1番思い出すのは、あの頃。・・・本当に帰りたくても帰れず、どうしようもなかった・・(いまもそんな感じだけれど)とにかく泣くことと眠って夢の中に生きることくらいしか自分には解決策が無かった。いまでも夜の外のバイクの音など一人で聞いたりすると、ほんと心が寒々としてくる。

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パイロットのペチットワン()。お手軽万年筆。安いし中が見えるし万年筆だしインク色も選べるし、便利かも。以前スーパーの文具売り場で見てからなんとなくずっと気になっていた。そして一昨日、つい買ってしまった。
既存インクの色が気に入らず、何色かのインクをスポイトでインクカートリッジに混ぜてみた。万年筆の書き味自体は素敵なので、自分で色を(ムリヤリでも)混ぜて使えるとわかると気に入った。ネックは自分にはちょっと太いことか・・。自分の手には鉛筆の太さが1番しっくり来るらしい。高校時代に買っていつのまにか何かの熱で少し曲がって年季が入ったシャープペン(鉛筆くらいのサイズの)が今でも一番書きやすい。字は元々汚いけれど、他のシャープペンやボールペンで書くとなぜか合わない感じがしてもっと汚い字になる。

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高校時代、単に雰囲気で惹かれた気のする付けペン。実際に使ってみるとカリグラフィーなどの使う理由があるものは別としても、普通のペンとして書くにはとても面倒だと感じた。結局何度か使ってみたのち、ペン先をインクで固まらせてそのままお蔵入りさせた気がするのだけど、ペチットワンで自分の好きな色を調合して書いているうち、付けペンも本当は楽しいかも、と、今ごろ感じたりした。当時カリグラフィーにも惹かれて、レタリングの本を借りてきて真似てみたりした。その頃は形だけに気をとられていて、マーカー(カリグラフィー用のならなおよし)でも同じではないか?と途中で気づいたりしたのだけれど、先日着物教室の生徒さんが下さった自作カリグラフィーのカードを見て、インクの色や味わいの深さに惹かれた。やっぱりわざわざペンとインクで書く理由というのは、ちゃんとあるのではないかと思う。

睡郷沼のぬし 05/12/14(水)
ものすごい間違い。下のシダさん宛のレスで「自分は前者(賢い)」と書いていたのは間違い。もちろん「後者」・・。書いてからしばらくたってるので冷や汗出てきた。
睡郷沼のぬし 05/12/13(火)
色々左)荒削り中。ストーブの血色(下に出てくるストーブ)。
右)カセットガスの残りとガラスの残りを寄せ集めて、変な虫もどき。とんぼ風。
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長い間休んでいたが、久々に人形の着物を教わりに行った。夏の終わり以来になっていたので、先生のお顔の色の違いに、目が行った。色白な方なので、寒さのためか、全体に赤くなっていて綺麗だな、と思った(ご本人は嫌らしい)。以前、知人Jの頬がバラ色だった時も、わぁ、綺麗だ、と思って似た色の頬紅が欲しくなったりした気が。赤って不思議ないろである。
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そこの生徒さんがとて も大きな柿の実を下さった。笑顔が素敵な昭和7年生の方なのだけど、そのお顔が、ぱぁー(pa)っと輝く柿に似ていると、実を見ながら思った。多趣味な方で「なんでもやりたくなってくるの」と楽しげに言わはる。自分の親が、こんな表情を浮かべて趣味に没頭しているところは見たことがなかった気がする。自責の念。
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その柿、見るほどに本当にすばらしい。そして、熟した物はどうしてあんなに旨そうにみえるんだろう・・。旨そうなのと同時に、とにかく綺麗で、果実というのは宝石だと思った。考えたら、こちらの方が、ある意味宝石であるのかもしれない。
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あまりに寒く、買った1400円ストーブ。私の部屋が狭すぎて危ない。プリンターも熱で壊れそう。狭くて遠くに置けない・・

睡郷沼のぬし 05/12/11(日)
近況 目玉、久々に無駄な挑戦。前回の春のデザインフェスタの準備と、自作バーナーの不具合、金欠などの理由で、だいぶ触っていなかったけれど、頭を作りながら、手持ちの使えそうな目玉がないことなどで困り、無駄な行動。基本的な作り方がよくわかっていないので、形も何もぐだぐだ。中心から紫・青緑・青紫を混ぜているけれど言わなければわからないと思う。

自作バーナーをやめて、簡易カセットガスで。ただ、これだとだいぶ注意しても煤が残ったりしてしまうため、以前ちょっと使ってみて比較的低い温度で溶け始めたりして煤がつきにくいと感じた喜南鈴のガラスを使ってみた。これまで佐竹のを使っていたし、色は佐竹の方が綺麗だと聞いていたので変えるのは微妙に抵抗があったのだけれど、足りない色を発注して届いた荷物の発送元をふと見たら「鹿島工場」となっていた。これは私の実家とすごく近いところで、それだけでイメージが変わったかも。

使ってみると、煤は殆ど入らなかったけれど、だけどガラスの状態がおかしくなってしまう。ぱっと見わからないけれどよく目を凝らすと白目部分など、普通の感じではない。火の扱い方のせいだろうけれど、なんとなく、やっぱりカセットでは限界があるのかなぁ、など思い、どっと疲れた・・。燃料のコストのことを考えてもバーナーを買ったほうが絶対いいのだけれど。今の環境でつかえるのは石油バーナーだけれど、買うとしたら高いし容易に手が出せない・・

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頭を作る時、作り始めは、けっこう「今回こういう感じに」「こういう骨格に」というのがあるのだけど、作っていくうち、やっぱりこう変えよう、とか、もう少し前回作れなかった表情を作ってみよう、という風に、少しずつ似たような感じになっていく。

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先日デザフェスで出して持ち帰ったものを箱から出して気づいたのだけれど、やっぱりけっこう彩色がはげている。関節部分が特に汚いけれど、右足親指とかひどい。どこかにぶつけたのだろうか・・。補修できるか不安。
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年齢あと何歳か若ければ・・。なかなか時間がとれず、そういう所があると知っていながらずっと行けずにいた安いガラス教室。年齢制限があるため、もう行けなくなるのがとても残念。せめてあと少しだけでも行きたい、と思いつつ、もしかするとそれまでに一回もいけなかったりして・・。

睡郷沼のぬし 05/12/10(土)
デザインフェスタで出した「流星の尾のあやとり」という起こし絵の付いた冊子を持って帰ってくださった方複数が、糊のにおいがいいと言ってくださった。そんなちょっと意表をついたご意見が同時にあったので、複数ということは、使ったどれかの糊がどこかひきつける成分を含んでいたのかもしれない。製作中、何種類か糊を使ったし買い足したりもしたので、どれかはわからない。気になって、最後に使った糊の残りを嗅いでみたけど無臭。使い切って捨てた方の糊は何年も前のなのでもう買えないし確かめられないけど、それだったりして。

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中学の頃、なんとなく小さなコロンの瓶(当時500円)を買ったことがある。使うことは殆ど無かったが、けっこう好きな香りだったので、何かに吹きかけたりしているうちに高校卒業時までに八割くらい使っていた。安いしもう一瓶買っておきたいと思っているうちに、いつのまにか見かけなくなった。

こっちに来る時、その瓶も一緒に入れていたみたいで、とっくに忘れた頃に出てきて、いつだったか久々に嗅いでみた。すると突然その頃の何かが不意に解凍されたような何ともいえない感じだった。匂いは記憶や体に染み込むものなんだなぁ、と感じた。

以来、似た香りをなにげに探しているけれど、あれだけ大量の香水があるのに、似た系統のものに出あったことがない。厚ぼったい香りではなくて、これは自分にしかわからない表現だけど、ガラスみたいなイメージの匂い。本来500円の安物が、長い旅になりそうだ。
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その「ガラスみたいなイメージの匂い」について。
小学の頃「匂いガラス」という印象的で不思議なドラマを見てその物語の感覚に魅了され、しばらく匂いガラス熱に浮かされていた私。土に埋もれた古いガラスを見つけてこっそり磨いたりしていた。その頃に自分で勝手に作り上げたイメージの香りが、それなのではないかという気がしている。

睡郷沼のぬし 05/12/06(火)
ぐちゃぐちゃ(編物風封筒)

なんだろう・・徐々に、そしてだんだん急速に、出来なくなっていくことが多い。工作関係でもとても感じる。子供の頃以下で、なんか悲しくなってくる。


再び、作りかけの人型など続行。
・・なにやっているんだ、うそだろう、と思う。これもまた。だんだん、そして急速に・・。
実は設計図くらいちゃんと作る癖つけなければ、と、ずっと思っていた程めちゃくちゃな製作をしていたけれど、さらにさらにスゴイ製作のしようになっているようで、目が当てられない・・。
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何日前だったか。夢のメモ。メモ・・メモメモ…。あれ、忘れている・・・。キーとなる一番肝心な単語(新しい言葉)を忘れた。しばらくは覚えていたのに頭はすっからかんだ。そんな自分にむかつく。
同じ夢だったかわからないけれどもう1つ。なぜか自分に子供がいて、名前は○○。かつて自分たち?がつけたミルクあとのある引き戸の前に子供がいてミルクを上げようとしているとか、そんな感じの夢だった気がする。そんな日はこないと予言できる。
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(下で、人と話す時期と話さない時期、と書いたけれど、特に人との交流期間があるわけではなくて、たまに一定期間喋る仕事とかが入ると、という意味合い。(数日顔が微妙に筋肉痛になったりする。――と、今書いていて暗さを実感。))
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上記の各項目をながめると、脳の衰えてしなびる音が聞こえてきそうだ  さびしいことだ  あぁ




 
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