目の前にある私/ エンギオロシ/ 不合理/ 不確実/ 悲しい居場所/ 坂道の遊び/ 青い人/ ガラス路地/ 聞こえない音/ 食べること/ あなたへの独り言/ 着せ替え/ ミ(外)/ 管/ 知ったこと
こんなことを考える時がある。
「人に食べられたものは人の体の一部になるのだから、 つまり、目の前にある食べ物は、未来の私なのだ」切り落とした髪を見ながらこんなことを考える時もある。
「これはさっきまで私だったのだ」
結局のところ、私って何だ?
まだ何でもかんでも周りの物に対して”さん”を付けていた(私がそうだったとは限らないが)ような頃、 いろいろな人が縁起が悪いと言って「4」という数字を嫌うのを見て、『「4」はかわいそうだ』と思った。
何か作業をするにしても、「4」はとても有能な数字だ。多すぎず、少なすぎず、また、2つずつ に分けても余りが出ない。それなのに、嫌われてしまうなんて・・・、と。
そこで、私はたくさん「4」を使った(実際には”使ってあげた”という感覚だった気がする←哀れんでいるわりに傲慢)。
それから大分経った今でも、時々「縁起をかつぐ」という言葉に、つい対抗してしまいたくなることがある。しかし、逆にそれは「縁起をかつがないこと」で縁起をかついでいるとも言えるのかもしれない。
縁起とは少し違うが、例えば横断歩道の”白”だけを2.3回続けて踏んでしまうと(あくまで例えの話. 私のことではありませんよ)、 次第に「”白”を踏み外したらダメなことにする」という気持ちになってくることが時々ある。 多かれ少なかれ、こういう観念にとらわれずにサイコロのように生活が出来たら楽だろうに。・・・・少々味けない生活になったとしても。
縦書きの原稿用紙に文字を書くとき、普通右から行を埋めていく。
しかしこれは、右利きの人にとっては少々不利なことに思える。書いたインクで手や紙が汚れるからだ。
一般的に、世の中には左利きより右利きの人の方が多いようなのに、なぜ縦書きは右から書き始めることになったのだろうか?もっとも、キーをたたいている今の私にはどうでも良いことであるが。
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解決しました。
以前から、自分が見たり感じたりしているものは本当に”確かなもの”なのか疑問に思っていた。
例えば、色。自分が「白」と言っている色は、他の人にとっても同じ「白」なのだろうか?もしかすると「黒」ということはないだろうか。
「白」と「黒」という単語を初めから間違って(ここで「間違える」という言葉は適当ではないのかもしれない)覚えていたらどうだろう?・・・色を見たときの感覚の表現でわかるって?
では、感覚の表現のしかたも初めから間違って覚えていたらどうだろう?間違ったまま、すべてのことを納得してしまっていたらどうだろう?という風に、時々同じところをぐるぐる回ることがあった。
実際、やや人工的ではあるが、以前パソコンを使い始めた頃、256色以下という設定で画面を見ていたときがある。その時はいろいろなページを見ながら、「そういう色なのだ」と納得していた(特に何も思わなかった)。 そして、ある日設定を変えてみると・・ 、そこには、今まで私の知らなかった世界が、広がっていたのだ(大袈裟?)。
そんなことも忘れかけていたある日、色弱者の方を特集した番組がTVで放送された。
彼は「この色はどんな風に見えるのか」と、時々人に訊かれるそうだ。
答えは「色の感じ方は人それぞれ違い、それをどの様に見えているかを説明することは出来ない。”ある色”は、その人にとっての”ある色”でしかない。」というようなことだった。私は何となく、その言葉にすくわれたような気がした。
夢の中の夢から覚めた瞬間、いつだって私は同じところにいる
どんなに遠く離れた場所で眠りについたとしても、私はいつも"ここ"にいるそしてこの後、夢から覚めた瞬間、再び遠く離れたところへ還ってしまうんだろうな
いつもみたいに息苦しくてどうしようもなくなるに違いない
坂道の遊び 1997.12 記憶が時間の傾斜を転がっていく
私は昨日と同じように坂の上に立つ
おきまりの遊びが始まった
それらは奇妙な音を坂道に刻みながら
そうやって私の遊びは今日も夕方まで続くのだろう |
明け方近くに、ある少女の夢を見た
彼女はほんの一瞬青白く光って微笑んだかと思うと
しかし、今になって考えてみると |
必死で足元の隙間を探す私の周りには
無数のもろいガラスがひしめいている
カラダから溶け出すことが出来たらな
そしたらあなたも割れずにすんだのに
音の聞き方というのはいくつかあると思うが、私は主に耳を使って聞いている。しかし一つだけ、それがどうしても出来ない音がある(正確にはあった)。私の実家にはぜんまい仕掛けの古い柱時計(今もう動いていない)が掛かっている。問題はその時計が刻む音。
音が鳴っていることは認識しているのに、なぜか耳で聞くのとは、どこか違っていた。感覚で聴いていたと言えばよいのだろうか。音が直接頭に入ってくるような感じなのだ。不思議に思った私は家の人に「あの時計の音はなぜ耳に聞こえないのか」と訊いてみると、どうやらそう感じているのは私だけのようであった。とうにあの時計は止まってしまったので、今改めて聴いてみることは出来ないのだが、かえってその方が良かったと思っている。おそらく今なら、普段そうしているように耳を使って聞いてしまうだろうから。
時計が時を刻まなくなってだいぶ経ってしまった今でも、耳(感覚?)を澄ますとすぐにあの”音”が戻ってくる。
「食べる」という夢を立て続けにいくつか見た
一羽の鳩が殺された
一滴の水をを口に含んみ、無理矢理自分を落ち着かせる
私は振り切るようにコンクリートの道を蹴って逃げ出した
夢はそこで終りだが 哀れみの感情ではないです
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たまに私は独り言を言うことがある。しかしそれは、何となく口に出るとか、寂しいといった理由からではない。
独り言といっても、私の場合、二人(あるいはそれ以上)言である。一人でいる時、勿論そこには私一人しかいないつもりなのだが、実際どこに誰が潜んでいるのかわからないのも確かだ。 もしかすると、亡霊(いたとしたら)に見られているかもしれないし、どこかから監視されているかもしれない(まさか)。だから、自分の行動にいちいち説明を付けるのだ(ごくたまにだけど)。
「今私はこんなことをしているけれど、決してこういう状態に甘んじているわけではないのだ」‥‥あ、ちょっと違う。 「たとえ向上心がなくっても(?)、本当はこういうつもりではないのだ.こういうことは嫌いなのだ.」 という気持ちを込めて、一言だけ。
私の行動をおかしな目で見ている誰か、そして私のために。
でも私は独り言が好きではない‥‥
今日の私が逃げていく 私はここに居るけれど 私に黙って逃げていく
いまの私は誰ですか?
明日は私がやってくる |
いつかあなたは私に言った この管があるから私がこうしていられるのだと
たった1本の細く濁った線
夢と現との狭間でそれは想い描く |
「嫌悪する」という感情を自分の中に見出したとき 私は天を仰いで歓喜しました 同時に私の求めるものを知ったからです 漂っていた私は座標のある一点にに受け止められました
「憎む」という感情を自分の中に見出したとき |