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旅の歳時記 会津(1) 

ようやくあこがれの治を訪れることができました

寺院イメージ

謹啓、暑さが厳しくなってまいりましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?
お寺も多くの方々のご尽力によって、無事護寺させていただいています。わたしもほぼ休みなしで精進いたしておりますが、年齢とともに肉体的なものと住職としての精神的なプレッシャーで厳しい日々を過ごしております。
生き抜くのではなく、〃息抜く〃のですよ、と川村 妙慶先生は教えて下さいました。そこで息を抜き、自分の気持ちをリセットするため、子供のころから気になっていた会津若松を訪ねてみることにしました。
会津若松を訪ねてみたかったのは、いくつか理由があります。
(1)歴史が好きで、特に幕末に興味があったこと。その中で、白虎隊の悲劇を含めて、会津藩が気になっていたこと。
(2)今年の大河ドラマが「八重の桜」であり、話しが進んでいく中でこれまで薩長の方の視点でしか知らなかった幕末の動乱が、初めて会津藩の視点から描かれていること。片方からの視点では、物事の本質は解らないと自分なりに感じつつあったからです。
(3)司馬遼太郎氏曰く「会津藩を書きたい、でも書き尽くせない」「会津藩は破滅への道を解っていてあえて貧乏くじを引いた希なる君臣であった。」「革命には血祭りが必要だ、それが会津藩だった」とあり、その言葉に惹かれ、会津武士の魂というか、心意気というか、そんなものを感じられたら・・・と思い、旅することにしました。

さて、私たちの浄土真宗では、阿弥陀如来一仏に帰依させていただくことを本義としています。
蓮如上人の御文章・第五帖一通・「末代無智章」には
〃他の神仏にこころをよせないで、ただひとすじに阿弥陀仏が、必ずたすけてくださることよと心にいだくものならばたといどのような深く重い罪・さはりをかかえていようとも、阿弥陀仏はかならずお救いくださるのであります〃とあり、
さらには第二帖九通・「忠臣貞女の章」には
〃外典(仏教書以外の本)には「忠臣は二君に仕えず」「貞女は二夫をならべず」とあり、
「一心一行といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。」〃とあります。 わたしなりにいただいてみると、自分の都合で宗教を使い分けている、日和見主義的な、ぶれた生き方をしてはいけないよ、しっかりとした軸(お念仏)をいただいて生きておくれと願われている、と味あわせていただくことであります。
私たちが参考にできる生き方がこの会津藩の君臣にあります。今日の日和見主義・ご都合主義の時代に、その愚直なまでのぶれない生き方、信義を貫く生き方が会津藩の君臣であり、とても新鮮に感じています。ドラマを見ていく中で、信義を貫くとは、あれこれ自分で分別することなく誠実に、正しい道を貫くことだと感じました。
今、わたしの生き方が問われます。その生き方を会津若松の地で、見て、何かしら肌で感じられたらと思い、旅立ちました。

幕末の京都、騒乱を鎮めるため徳川幕府は威信をかけて京都守護職を置きます。白羽の矢が立ったのが、藩主保科正之公以来親藩として徳川宗家に忠勤を尽くしてきた会津藩でした。はじめは藩主、家臣一同固持しますが、藩曾以来語り継がれてきた御家訓(ごかきん)を持ち出され、やむを得ず引き受けます。その御家訓とは〃何があっても徳川宗家と存亡を共にすること〃でした。それが破滅への道へと進んでしまうことは分かっていても・・。
藩主松平容保をはじめとする会津藩は愚直なまでに誠実に任務を遂行し、時の孝明天皇から信頼を勝ち得ます。それが孝明天皇の突然の崩御と共に歴史の歯車が変わり、薩摩・長州の謀略によって政権の中枢から無理矢理引きずり下ろされ、朝敵の汚名を着せられるのです。もちろんある資料によると、そのあまりの愚直さに策を弄することもなく、また情報収集能力が欠けていた、と見る向きもあるようです。徳川宗家と共に会津藩は恭順を示しますが、徳川宗家は許されても会津藩は許されることはありませんでした。振り上げた拳の落としどころを、矛先を、新政府軍は会津に向けたのだと思います。
新政府軍は会津へと着々と歩を進めます。二本松少年隊の悲劇も起こります。ついには戦火が鶴ヶ城下に迫ってきます。ここから会津藩の悲劇が始まります。君臣一体となって、負け戦とわかっていて戦うのです。
どうして負け戦をわかってて戦ったのか?平和ぼけしているわたしにはつい最近までそのわけがわかりませんでした。今回の旅でその答えが見つかりました。
そこには会津藩士に語り継がれてきた、什の掟(じゅうのおきて)がありました。

※もし興味があられる方、御家訓も含めてコピーをさしあげます。
〃ならぬことはならぬものです〃幼少期からたたき込まれた会津武士の精神です。この什の掟の考え方から、〃自分たちは賊軍ではない、朝敵の汚名をそそぐため、ならぬことはならぬものです〃という信念をもって君臣一体、老若男女一丸となって正義のために戦ったのだと感じました。わたしには到底まねできません。信念が違いすぎます。
白虎隊の悲劇も起こります。松平容保の近衛兵であった白虎隊もついに新政府軍が城下に迫り、容保は滝沢本陣にて出陣を命じます。(15〜19才までの少年兵です。)
彼らは勇ましく戦いましたが、力の差は歴然でやむを得ず退却し、やっとの思いで飯盛山までたどり着き、敵陣に切り込むかお城まで戻るか話し合っていたところ、お城が燃えていることに気づき、自分たちは会津武士である、敵に捕まって辱めを受けるよりと、武士らしく腹を切って果てるのです。
実際は城下の煙であって、鶴ヶ城が燃えていたわけではなかったのですが、・・・。
少年兵です。どんな思いだったのでしょう。潔い生き方です。

また、こんなエピソードを見つけました。会津藩家老 西郷頼母の妻、千恵子の話です。
主人が入城するにあたり、自分たちは敵に辱めを受け、足手まといにならないようにこう辞世の句を詠んで一族の婦女子21名と共に自刃して果てるのです。
〃なよ竹の 風にまかする身ながらも たまわぬ節は ありとこそ聞け〃
(細くしなやかな竹は風が吹くままになびくように、わたしはかよわい女ではありますが、固い信念を持っていますよ)とありました。

新政府軍が城下になだれ込み、そのあまりにも悲惨な状態を見て驚いたといいます。そのとき一人の婦女子が奇跡的にいのちをながらえていました。彼女は目が見えなくなっていました。人の気配に気づき「敵か味方か」と尋ねたといいます。その時の兵士はあまりにもその状況を哀れんで、「味方だ」と叫び介錯してあげるのです。わたしはどうなのでしょう。信念が違いすぎます。驚愕しました。
また、中野竹子という女性がいます。長刀の使い手で鶴ヶ城下が戦場になると、女性だけの長刀隊を組み、勇猛果敢に戦います。その際にこう辞世の句を詠み、長刀にくくりつけ戦ったそうです。
〃武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば 数には入らぬ 我が身ながらも〃
最後は敵の銃弾を浴び、妹に介錯をさせたと聞きました。

この信念をもった生き方、すさまじいばかりです。 
京都守護職会津藩お預かりの新撰組の生き残りの隊士に、斉藤一という人がいます。
場外で必死に戦いましたが敗色は濃厚。同士の土方歳三は仙台藩への撤退を提案しますが「会津藩あっての新撰組である、最後まで忠義を貫くべきである」と最後まで会津藩に残り戦うのです。敗戦後流浪を経た後、警視庁に入隊し、西南戦争へと従軍しました。
賊軍で会った斉藤が、時を経て西南戦争に従軍し賊軍である薩摩藩、西ク隆盛らと戦うのです。縁というのはわかりません。戊辰戦争の時とは真逆です。
「自分が死んだら骨は会津に埋めてくれ」と言い残し、なくなったといいます。

主人公の新島八重もしかり。砲術指南役の家に生まれ、女性ながらも鉄砲に興味を持ち、強い信念をもって兄、覚馬から技術を教わりました。その才能は開花することはないはず・・・でした。ですが、「勝てば官軍、負ければ賊軍」時代のうねりと共に会津藩は理不尽に朝敵の汚名を着せられ、各地で敗北をし、やむを得ず籠城戦を強いられます。
八重も弟の形見の服を着て、スペンサー銃を持って入城します。「ならぬことはならぬのです。」理不尽な朝敵の汚名は許せなかったのでしょう。
毎日2000発の砲弾が撃ち込まれ、鶴ヶ城は瀕死の状態であったろうと思います。でも城内の士気はいっこうに衰えなかったそうです。
八重も懸命に戦いました。城内の士気が衰えなかったのは八重のお陰だ、という人もいるのです。それほどの勇猛果敢な活躍だったらしいです。
聞けば食料も何年備蓄していたかわからないような虫のついた米を食べ、糞尿の処理に困り、強いては死体はやむを得ず空井戸に入れた、とありました。すさまじいばかりの籠城戦です。藩主松平容保をはじめ、正義の戦いと信じ君臣一体となって戦ったのです。でも兵力・銃器の差は歴然です。
ついに松平 容保は城を明け渡すことを決意し、白旗をあげた、・・とあります。この白旗が日本の歴史上、初めてあがった白旗なんだそうです。
その日の夜、お城の蔵物蔵に八重はこう句を詠んだといわれています。
〃明日の夜は 何国(いづこ)の誰か ながむらん 慣れし御代に 残す月影〃

さぞ、無念だったと思います。
開城式は、鶴ヶ城外で行われたそうですが、赤い毛氈を敷いて行われたと、会津藩士はその毛氈を切り取り、この無念を忘れないようにと各々持ち帰ったそうです。

訪れた会津若松の地はとても穏やかでした。激戦の会津戦争が行われたとは思えないようなのんびりとした土地柄でした。
わたしは薩摩の人間ですので、なるべく言葉を発しないように気をつけていました。でも、会津の方々はこんなわたしをとても丁重に迎え入れてくださいました。
飯盛山のお土産物屋で二男からスペンサー銃のゴム鉄砲を買い求めてくるように頼まれていたのですが、もうお店を閉める準備をしておられました。慌てて訪ねて、「まだ大丈夫ですか?」と尋ねると、「大丈夫よ」と快く迎えてくださりました。わたしが薩摩の人間であることを伝えると、「もうそんなこと、気にしなくていいよ!」と言ってくださり大変有り難いと感じました。
太平洋戦争後の東京裁判において、インドのパール判事の言葉が思い出されます。
ダンマパダ・法句経・五の言葉です。
〃この世において、怨み返すことによって怨みが鎮まるなどということは決してない。怨みを持たないことによって鎮まるのである。これは永遠の真理である〃
わたしが教えられたような気がします。
鶴ヶ城・福島県立博物館・大河ドラマ館にては「八重の桜」の特別展が開催されており、会津戦争の貴重な資料が展示してあり、たっぷりと時間をかけて見て回りました。いろんな新事実や会津藩緒君臣の無念の想い、やるせなさ、いろんな思いを肌で感じました。
鶴ヶ城の天守閣を眺めがら、二日目1時間、最終日1時間ゆったりと過ごしました。
また、宿泊した温泉でも城下を見渡せる露天風呂があり、ここでも1時間ぐらいずつ過ごしました。瞼を閉じながら会津戦争の激戦への思いを巡らし、ちょっぴり涙が出ました。
松平容保の墓前でも涙腺が緩みました。またそれぞれのゆかりの方の墓前でもこみ上げてくるものがありました。
最終日訪れた場所はもちろん鶴ヶ城です。帰りの時間は迫っていたのですが、なかなか離れることができませんでした。
ようやく駅へと向かい、万感の思いを残し、会津若松をあとにしました。

結論、訪れてよかったです。ゆかりの地を訪ね、墓前にてお参りをし思いを新たにすることでした。
〃さらに餘のかたへこころをふらず一心一向に佛たすけたまへともうさん衆生をば、たとい罪業は深重なりともかならず弥陀如来は救いましますべし〃
(御文章・末代無智章)
わたしの生き方が定まりました。お念仏をいただいて、仏さまの教えを自分の生きていく軸として生きてまいりたいと思います。
今度は是非とも家族とともに訪れたい、子供達に日和見主義的なぶれた生き方ではなく、会津藩の君臣に根付く、信義を貫く生き方を教えてあげたいとと思います。意義深い一人旅となりました。
最後に、わたしの留守を守ってくださったすべての方々に深く感謝申し上げ、歳時記とさせていただきます。
(戊辰戦争を信義を貫いて戦った会津藩のみなさまへ万感お思いを込めて)

【文責 住職 西 哲也】
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