Hand To Hand 4

 

 沖縄から帰ってきた日向は自分が試合に出られないということなど考えてもいなかった。
 あの北詰監督のことだから、ただではすまないだろうとは思っていたが、それでも試合には出られると思っていた。東邦がいかに強いといっても、自分を外して勝ち残れる訳がないと自負していたからだ。
 だが東邦学園は日向抜きで全国大会を勝ち抜いていた。そして準決勝戦を明日に控えてもまだ、日向は試合に出ることを許されていなかった。ジリジリとした焦燥感が日向を苛立たせる。
 特待生としての権利を剥脱されるという話はどうでもいいことだった。そんなことよりも、南葛との試合に出ること、それが日向が今一番に望んでいることだ。
 試合に出て、あの大空翼に勝つ!
 小学校六年生の時に翼に負けて以来、翼に勝つことだけを目標にしてきたといって過言ではなかった。そのために沖縄にだって行ったのだ。
 だが試合に出られなければ元も子もない。
「キャプテン、いつまで起きてるんですか」
 隣のベッドから若島津の声がした。
「起きていたのか」
「明日の試合のことを考えていたら色々と思い出しちゃって」
「ああ、明日は明和戦だもんな」
「あの頃のあんたってば本当にワンマンでしたよね。無茶なことも一杯して、俺はいつもヒヤヒヤしてたっけ」
「人のことを言えるのかよ。おまえだって一緒になってやってたくせに」
「ハハ! だって、あんたと一緒にいると退屈しないし面白いんだもんな。今だってそうだよ。絶対に安穏とさせてくれないんだから」
「悪かったな」
「謝らなくていいですよ。俺は楽しんでるんだから」
 いかにも楽しそうな若島津の声に、日向は苛立つどころか不思議に気分がほぐれていた。
 がばっと起き上がり、若島津の方を見る。その気配に気付いた若島津も起き上がり、ベッドサイドの小さいライトを付けた。若島津の白い顔がほんのりとした明かりに照らしだされる。その顔に日向はなぜかドキッとした。それを誤魔化すように慌てて話しだす。
「だが、どんなにいい思い出があっても試合は別だ。手加減するなよ」
「当たり前です。顔馴染みばかりで確かにやりにくいけど勝ちますよ。勝って、あんたと決勝戦にでなきゃらないでしょうが」
 若島津は当然のことのように言い切った。
「おまえは…俺が試合に出られると思っているのか?」
「当たり前じゃないですか。あんたなしで勝てるほど南葛は甘くないし、あんたがいてこその東邦だ。あんたのいない試合は明日までだと俺達は信じているんですから」
 暗がりでよく見えないはずの日向の顔に向かって若島津は笑いかけた。
「若島津…」
「肝腎のあんたが弱気でどうします。また吉良監督の元にでも修業に行った方がいいんじゃないですか?」
 悪戯っ子のような笑みを浮かべて若島津は笑う。
「嫌な野郎だぜ」
 だが日向は落ち着いた気分になっていた。あの胸を締めつけるような焦燥感がどこかに消えている。
「さて寝ますかね。睡眠不足で失点したら、あんたに何を言われるかしれないからね」
「当たり前だっ! さっさと寝ろ!」
 日向の怒声にクスクス笑いで答えた。
「はいはい。おやすみなさい」
 ほんのりとした明かりが消えた。再び暗闇が帰ってくる。
「……ありがとうな…」
 日向は不意に呟いた。今の気持ちを正直に表したくなったのだ。
 だが若島津は眠っているのか、返事はなかった。
 しかし日向は気分よく眠りにつけた。
 全ては明日だ。明日、若島津達の信頼に答えるためになんでもしてやる!
 日向はその覚悟を決めていた。

 

 焼けつくような痛みが左肩を走っていく。
 こんな痛みは事故にあって以来一度として感じたことがなかった。それが何故、今頃、この大事な場面で出てきたのか! 若島津は言い様のない怒りを感じていた。
 目の前で繰り広げられている試合は手を抜いて切り抜けられるような生易しいものではない。全力を尽くしても取れないかもしれないシュートを放つ大空翼がいる限り、この肩の痛みを忘れてボールに飛びついていかなければならないだろう。
 日向は誰よりも早く若島津の肩の異常に気付いてくれた。だが一度翼と対峙すれば、そんなことは日向の脳裏から消えていくだろう。翼との対決こそが日向をここまで鍛えてきたのだから。
 それになにより、そういう日向だからこそ若島津は惹かれるのだ。自分のことを気にして思うように翼と戦えないとしたら、それこそ牙の抜けた虎だ。
 だがその一方で、翼との対決などいいから、勝つことだけを考えてくれという気持ちがあるのも確かだ。自分本位な考えだとわかっていても東邦には優勝してもらいたかった。そうでなければ…
「くらえ! 翼!」
 怒号がフィールドに響いて日向のスライディングタックルが翼を襲った。
 が、今まで動けなかったはずの翼がジャンプをして日向をかわした!
 そして若島津のいるゴール目がけて翼は駆け上がってくる!
(右手一本でも止めてやる! 俺がサッカーを続けていくために!)
 翼のドライブシュートが大きく弧を描いてゴール右上スミ目がけて飛んでくる! 若島津は迷わず飛んでいた。
(今度は押しこまれない! 何度もやられてたまるか!)
 後向きからの遠心力を利用し、若島津は確かに翼のドライブシュートを守刀で弾いた。
 だが、よりによって左肩からゴールポストに激突してしまった。とんでもない痛みが体中を駆けぬけ、若島津はそのまま動けなくなってしまった。
『全国制覇できなかったら、サッカーをやめるよ』
『俺たち東邦は必ず勝つ。必ず優勝してみせる』
 脳裏を自分の声が響いていた。
(立たなければ…立ってゴールを守るんだ)
 だが体はいうことを聞いてくれない。仲間達の叫び声が朦朧と聞こえる。
(クリア…してくれ…日向さんに、ボールを…)
「うおおっ! タイガァーショットだァ!」
 ゴールポストが揺れた。日向の怒声が近くで聞こえる。
(ああ、立たなきゃ。立って守るんだ。俺は負けるわけにはいかない!)
 若島津は唸って近付いてくるボールの音に反射的に立ち上がった。ボールもよく見えない。だが迷わずゴールポストを蹴っていた。
「ぐっ!」
 とんでもない勢いのボールが腹を直撃した。
 そのまま止めようとするが、どうにもボールの勢いを消すことが出来ない。逆に体ごとグングンと押しこまれていってしまう。
(畜生っ!)
 その時、横から誰かが飛びこんでくる気配がした。ぐっと腰をつかまれる。
 気付いた時には、ゴールラインギリギリのところでボールを抱えたまま座っていた。
 若島津はしばらくぼうっとしたままボールを見ていた。
 不意に視線を感じた。ゆっくりと左側を見る。若島津の腰に手をのばしたまま倒れていた日向がひょいと顔を上げ、若島津を見ていた。
 視線があう。
 途端に日向はとんでもなく満足気な笑みを浮かべた。
「ひゅう…が…さん…守ったんですね…」
「ああ!」
 日向はさっと立ち上がり、若島津に手を差し出した。若島津も素直にその手に掴まる。「延長戦も頼むぞ」
 強い口調とは裏腹にとんでもなく優しく若島津の左肩を撫でて、日向は駆け寄ってくるみんなの元へと走っていった。
(熱い…)
 日向の背中を見ながらベンチに歩きだした若島津は左肩が伝えてくる熱さに戸惑っていた。今まで感じていた痛みとは全く違う、不思議な熱さ…
(日向さん…あんたの熱さか…)
 そっと左肩に手をやる。
(あんたから貰ったこの熱さに誓うよ。絶対にあんたを優勝させる。俺がサッカーを続けるためにじゃない。あんたの為にだ、日向さん)
 若島津は堅く決意していた。

 

歩み/Hand3/Hand5