Hand To Hand 3

 

 頭をうなだれているタケシを慰めつつ、若島津は小さく溜息をついた。
 県大会前に、自分抜きで勝ち抜けと言ったかと思えば、今度はいきなり失踪したという話を聞き、若島津はつくづく自分のケガを恨んでしまった。自分がいれば、こんなに無茶なことを日向にさせなかったのに!
「それで、おばさん達も行き先は聞いていないんだな?」
「はい。でもバイト先には今日まで休むって前もって言っていたみたいです」
「だったら少なくとも今日中には帰ってくるつもりなんだろう。しかし一体どこに行ったんだか。お金だって、そう持っちゃいないはずだし」
「すみません。ケガをしている若島津さんにわざわざこんな話をしたりして…」
「なにを言ってるんだ。俺のせいでおまえにも余計な苦労をかけてしまったんだから気にするな。それより、もしキャプテンが帰ってきたら病院に来るように言ってくれないか。試合前にちょっと釘をさしておかないと…」
 コンコンッ
 ノック音とともにドアが勢いよく開いた。
「よう、若島津! 具合はどうだ」
「日向さん!」
「キャプテン!」
 タイミングよく現われた日向に二人は同時に叫んだ。若島津だけだと思っていた日向はタケシもいるのに気付いて少しバツの悪そうな顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻ってズンズンと病室を横切ってきた。
「一体、どこに行ってたんですか!」
 いきなり若島津は怒鳴った。大きな声を出してちょっと肩に痛みが走ったが、かまわず睨みつける。だが日向は気にするような風も見せない。
「すまなかったな。ちょっと偵察にな」
「偵察?」
「ああ、若林っていう去年優勝した修哲小の無失点キーパーがいただろ。奴がどれほどのキーパーか知りたくてな」
「そんな…静岡まで行ってきたんですか?」
 タケシが呆気に取られている。
「ああ、トラックの運ちゃんが乗っけてくれたからタダで行けたぞ」
「自慢して言うことですか! おばさん達がどれだけ心配するか考えてないんですか」
「言ったら止められるのはわかってるからな」
「まったく…」
 悪怯れもしない日向に若島津は頭痛を覚えてしまう。本当に、自由に動く体だったら頬の一つでも張り倒しているところだ。
「しかし奴もたいしたことないな。俺のシュートに一歩も反応出来なかったぞ」
 自慢げに言う日向にタケシと若島津は顔を見合わせた。結局、この男には何を言っても無駄なのだ。こうと決めたら最後、自分のやりたいことを通してしまう。それが彼の欠点でもあり、また若島津達が惹かれてしまう魅力でもあるのだから…
「油断は大敵ですよ」
「フン! おまえなんかいなくたって優勝旗を持って帰ってくるさ。そしたら、そんな文句はもう言わせないぞ」
 日向は憤然と言った。若島津も意地悪な目で日向を見る。
「やれるもんなら、どうぞ。俺はここでゆっくりと療養させてもらいますから」
「ああ、いいとも! いつまでもずっと寝てろ!」
「日向さんも若島津さんもやめてくださいよ」
 タケシが見兼ねて間に割って入る。
「本当に、二人とも! それより日向さん、お家には帰ってきたんでしょうね?」
「いや」
「日向さん!」
 これまたタケシと若島津の二重唱だった。
「さっさと帰ってきてください! まったく何を考えているんだか」
「なんだよ…二人して…」
 意地けながらも日向はようやく病室を出ていった。その後姿を見ながら、二人は深い溜息をついた。
「タケシ、本当に大変だと思うが、日向さんを頼むな」
「はい…覚悟してます」

 

 第六回全国少年サッカー大会五日目の夜、明和FCに割り当てられた部屋の中はいつになく沈んでいた。
 監督はいない。しかし吉良監督がこの時間にいないのはいつものことで、大方どこかで飲んでいるのだろう。これには慣れているから、なんてことはない。
 問題は、彼らの大将でありチームの要である日向小次郎が、昼間のふらの戦の後に倒れて、そのまま医務室で寝ていることだ。明日の試合に出られるのかもわからないのだ。
「ちょっと、キャプテンの様子を見にいってくる」
 今日合流したばかりの若島津が立ち上がった。
「俺も!」
 沢木と長野も立ち上がりかけた。だが若島津が制した。
「みんなで行ったらキャプテンも疲れるだろう。寝ているかもしれないし」
 日向に次ぐ明和FCの要である若島津に言われ、沢木達は腰を下ろした。日向の様態は心配だが、若島津を出し抜いていくほどの勇気はなかった。それに日向のことは若島津に任せていた方がいいというのは、若島津がいなかったこの二月ほどの間で嫌という程わかっていた。

 

 日向は不意に目を覚ましたが、その不快感にさらに気分が悪くなる。八月になろうかという夜は蒸し暑く、ただでさえ汗で下着が気持ち悪くなるのに、熱を出している今はとんでもない。
 と、医務室のドアが開いた。小さな人影がベッドに近付いてくる。
「若島津か?」
「起きてた?」
「ああ…」
 日向は近くにあるスイッチを押してベッドサイドの明かりをつけた。互いの顔が見えるくらいの微量な光だが、二人には充分だった。
「具合はどうですか?」
「ん…まだ少し熱いみたいだ。おまえこそ肩はいいのか?」
「もちろん。でなきゃ、あんなキャッチングは出来ないよ」
 にっこりと笑った若島津に日向はホッとしたように小さく笑った。
 ふらのとの試合の終盤、PKという絶体絶命の危機に現われた若島津は松山光のシュートを見事にキャッチし、日向にパスをくれた。それをそのままゴールした日向は若島津と話すこともなく倒れてしまったのだ。
 熱で朦朧とした頭には、あれは幻だったのではないかとさえ思えた。自分の願望が現われてしまったのだと…
 若島津がいない試合は日向にかなりの肉体的・精神的な負担をかけさせた。連日の猛暑の中で失点以上に得点しチームを引っ張っていかなければならないというのは、思っていた以上に大変だった。これまでどれほど若島津に頼っていたのか否応なしに感じる。
 もうダメだ。終わりだ。
 PKになったあの瞬間、日向は自分の負けを覚悟した。
 その途端、今まで張り詰めていたものが一気に四散してしまい、ただ勝ちたいという執念だけで押さえつけていた熱の威力が日向の全身を襲った。立っているのさえ辛く感じるほどだった。
 だが、そこにいきなり現われた若島津は日向の闘志に再び火をつけてくれた。ゴールを目指して走る力を与えてくれた。若島津はまさに日向の守護神だった。
「俺がもっと早く来れていたら、あんたに負担をかけないですんだのに。すみませんでした」
「謝るなよ。練習だってろくにしていなかったんだろうが」
 日向は熱で潤む目で若島津を見上げた。若島津は舌を小さく出して笑った。
「実は家を抜け出してきたんだ。医者の許しを待っていたら、いつまでたっても試合に出れそうにないんだもんな」
「おいっ!」
「いいんだって。でも抜け出す時はちょっと面白かったぜ。姉さんにも脱出劇の片棒を担がせてさ」
「おまえは面白かったかもしれねえが、俺はまたおまえの親父さんに恨まれるじゃねえか」
「ハハハハ、ごめん。優秀なゴールキーパーを得る代償だと思って許してよ」
「ハハハじゃねえよ。それで本当に肩は大丈夫なんだな?」
「うん、それがちっとも痛くないんだ。どうしてだろ」
 全然痛くないはずはないのに、若島津はケロッとして笑っている。日向の胸はなんだかよくわからない熱いもので一杯になってきた。妙にドキドキする。自分でもおかしいと思う。だから、それを誤魔化すように話題を変える。
「それよりな、俺…もしかしたら東邦学園に入れるかもしれねえんだ」
「え?」
「一回戦の後にスカウトだっていう人が来てさ、特待生として中学・高校・大学の十年間の学費・生活費を援助してくれるっていうんだ。もちろん、この大会での俺の活躍しだいなんだけどよ」
「…良かったな、キャプテン」
 突然の話に驚きを隠せない若島津だが、にっこりと笑ってみせる。
「あんたの夢だったもんな。でも東邦っていったら凄いな。あそこはサッカーのレベルも学力のレベルも相当凄いところだよ。学費もね」
「みんなにはまだ言っていないんだ。内緒だぞ。スカウトを取り消されたりしたら情けねえからな」
「大丈夫だよ、あんたなら」
 若島津に言われると日向もそう信じられる。
「さあ、もう寝ないと。俺のせいで具合が悪くなったなんて言われたくないもんな」
「ああ」
 素っ気ない返事に若島津は日向の顔を覗きこんできた。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
 毛布を整えてくれる若島津をぼうっと見ていた日向は慌てて毛布を抱えこんだ。
「い、いや…ちょっと眠たいだけだ」
「じゃあ、俺は部屋に帰るよ」
「あっ…若島津…」
 背を向けようとした若島津を日向は咄嗟に手をのばしてその腕を捕まえた。その行動に自分で驚く。だが、やってしまったからには開き直って言ってしまう。
「その…俺が眠るまでいてくれないかな」
「え?」
 あまりにもらしくない台詞に若島津はきょとんとした顔になった。
「いや…なんか、一人だと落ち着かなくて…」
 日向は自分でも情けないことを言ってるなと思う。珍しく熱なんか出したから弱気になってしまったんだ、そうに違いないと自分に言い聞かせる。
 でも馬鹿にされるかな? そう思ったが、意外に若島津は馬鹿にするように笑うでもなく、笑顔で答えてくれた。
「いいよ。俺が入院してる時、しょっちゅうお見舞いに来てくれたもんな」
 近くにあった椅子を引き寄せて座ると、日向の左手をふんわりと握る。
「あんたが熟睡するまでいてやるよ。可愛い子じゃなくて悪いけどね」
「なに言ってんだ……おまえの手…冷たくて気持ちいいな…」
 日向は目だけで笑って、ゆっくりと瞼を閉じた。
 若島津の冷たく感じる手の感触を心地よく感じながら深い眠りに落ちていく。
 そのすっかり安心しきった日向の寝顔に若島津は言いようのないものを感じていた。妙に胸が痛い。
(日向さん、明日は必ず優勝しよう。優勝して、東邦に……)
 若島津の胸を一抹の寂しさが駆けぬけていった。

 

歩み/Hand2/Hand4