Hand To Hand 2

 

 日向と若島津はいつも他の少年達が帰った後も残ってサッカーの練習を続けていた。
 日向は練習時間の途中に夕刊の配達に行かなければならないので、その分を取り戻すためにみんなより遅くまで練習をしていたのだ。
 若島津も学校から帰るとすぐに自分の家の道場で稽古を受け、それからグランドに来るので練習時間を延長していた。サッカーをやりたいと父に言った時、決して空手をやめないということを誓っていたから、どうしても両立していかなければならなかったのだ。もちろん若島津自身も空手は好きだったから苦痛ではないが、それでも毎日をかなりハードに過ごしていた。
「しっかし、おまえも大変だな」
 日向は若島津が差し入れてくれたピロシキを美味しそうに頬張りながら言った。練習からの帰りだった。
「確かに初めは大変だったけど今はもう慣れたからどうってことないよ。それより、キャプテンも屋台のバイトは大変だろ?」
「俺のおかげで助かってるって、親父さんに頼りにされてるんだぜ。やりがいがあるよな、まったく」
 ピロシキを食べおわって満足気な笑みを浮かべた日向に若島津も笑顔を見せる。
「今度の練習試合には出られるんだな?」
「ああ、この前は空手の大会に無理矢理だされたけど、今度はそういうのがないから大丈夫。あの試合結果を聞いた時には俺の方がイライラしちまったもんな」
 明和FCで正キーパーをはっている若島津だが、空手の都合で練習試合に出られないことが度々あった。控えのキーパーはかなりのザルだったので、彼のでない試合はぐっと失点率が上がってしまう。それでもこのチームが勝てるのは日向がそれ以上に点を取るからだ。
「おまえの親父さんも諦めてないからな。まあ、無理もないか。空手をやってるおまえって本当にすごいもんな」
「そんなことっ! 俺はサッカーを一番やりたいんだ」
「うん。でも親父さんの気持ちも何となくわかるからさ。ほら、親父を亡くしてるから、おまえの親父さんを見てるとなんだか俺の親父を見てるような気がしてさ…」
「キャプテン…」
 夕日も完全に沈み、紺色のインクをぶちまけたような空が広がっている。周囲の家の窓にはそれぞれ暖かな光が灯され、どこからともなくいい匂いが漂ってくる。
「さて、直子達がおなかを空かして待ってるかな。朝の残りをおにぎりにしておいたけど、足りたかなあ」
「今日もおばさんは遅いんだ?」
「うん、なんだか最近忙しいらしくて」
「そういう時はうちに来させるようにって言ってるだろ。妹の杏子だっているんだし、おふくろに俺が怒られちまう」
「そんな、いつもいつも世話になる訳にはいかねえよ」
「遠慮なんかするなよ。小さい子供達ばかりだと留守番だって大変だろう。何かあってからじゃ遅い…あれ?」
 急に足を止めた若島津に日向も立ち止まる。
「どうした?」
「あれ…直子ちゃんじゃないか?」
「え?」
 若島津は10mほど先の電柱を指差した。暗がりでよく見えないが、確かにそこには直子らしい女の子が立っている。二人は駆け出した。
「直子!」
「お兄ちゃん!」
「おまえ! こんな時間に何をしてるんだっ! 勝達はどうした」
 いきなりの怒号に、五歳になったばかりの直子の目が涙で潤み始めた。
「だって…」
「だってじゃない! いいかっ…」
「そんなに怒鳴らりなさんな。怯えちゃってるじゃないか。直子ちゃん、どうしたの?」
 若島津は日向の肩を押しのけて直子の前に屈みこんで顔を覗きこんだ。そして足元にあるものにやっと気付いた。
「あ…これ?」
「うん…」
 べそをかきながら直子が頷いた。
「なんだ?」
「ほら、子犬」
「え?」
 直子の足元にはちっちゃな段ボール箱に入れられた茶色い子犬が眠っていた。生後一ヵ月くらいだろうか。
「だって、このままにしてたらかわいそうなんだもん」
 日向に会って安心したのか、直子はなかなか泣き止まなかったが、それでもなんとか話をした。
「ミキちゃんたちとみつけたんだけど、みんなかえないって。うちもダメなんでしょう? でもほうっておいたら…」
「大丈夫だよ。誰かが拾ってくれるさ」
 日向はそんなに都合よくいかないとわかっていながら言っていた。だって仕方がない。彼らが住んでいる貸家ではペットは飼えないのだ。例え飼えたとしても、そんな余分な出費を許せる家計ではない。だから、なんとしても直子を納得させなくてはいけなかった。
「でも、このままだったら、ホケンジョにつれていかれてコロされちゃうんでしょう?」
 また直子が泣きだした。日向と若島津は困ったように顔を見合わせた。
「直子、そんなことを誰から聞いた」
「チロをどうしようってここにいたら、どこかのおばさんがいってたの。ねえ、チロをコロさないで」
 困った。日向は実に困った。直子はすでに名前までつけてこの犬に愛着を感じてしまっている。こうなったら簡単には納得しないだろう。それでも日向は溜息をついて直子の肩に両手をついた。
「いいか、俺達が連れて帰っても飼えねえんだ。結局、同じように捨てなきゃいけなくなる。中途半端に面倒を見られるより、このままここにいた方が俺達よりもよっぽどいい奴に見つけられる可能性があるんだ」
「だけど…」
 直子を連れていこうとするが、直子も日向の妹だ、頑固さもそっくりだ。両足を踏張って動こうとしない。
「だったら、カイヌシがみつかるまでここにいる」
「直子!」
「いや!」
「言うことを…」
 日向が直子に手を上げようとした瞬間、若島津が彼の手を掴んだ。
「叩いたって、納得しないよ」
「しかしな!」
「いいよ、俺が家に連れていくよ。ウチだったらいろんな人が出入りするから、飼い主が見つかるかもしれない」
「しかし…」
 渋る日向だが、直子には救世主に見える。目をキラキラさせて若島津を見上げた。
「ほんとう?」
「ああ。飼い主を見つけてみるよ」
「ありがとう! ケンにいちゃん」
 若島津はチロを抱き上げた。
「若島津、いいのか?」
「うん」
 笑顔で応え、それから少し小声になった。
「もし見つからなかった時は諦めてくれよな。俺ん所はおふくろがアレルギーをもってるから毛のある動物は飼えないんだけど、短期間ならなんとかなると思うから」
「すまねえ」
「謝るなんて、キャプテンらしくもない。さ、帰ろう」
 若島津はなんでもない顔をして日向の背中をおした。

 

 チロの飼い主を見つけたいと家族に話したら、若島津は家中の顰蹙を浴びた。母親のアレルギーもあったし、誰が面倒を見るんだという話になり、かなり責められた。
 当の本人はただでさえサッカーと空手で忙しい上に最近は新しい習いごともしている。結局、彼以外の誰かの手を頼らなければ子犬の面倒など見られないのは明らかだった。
「いつもは物事をきちんと判断する子だけど、時々どうした訳か考えなしのことをするんだからねえ」
 母親は呆れたように言った。実は次男坊に甘い母親は飼ってあげたかったのだが、アレルギーには勝てなかった。心を鬼にする。
「せめて一週間でいいからお願いします」
「でもね…」
「どうして、この犬にこだわるの。今まで一度だって犬猫を拾ってきたことなんかなかったじゃない」
 姉の綾子に言われて健は黙ってしまった。この際、日向達の名前は出したくなかった。父親が日向をよく思っていないのは知っていたから、彼が絡んでいるとわかればいい顔をされないだろう。それでも子犬を連れてきたのは、困ったような、悲しいような日向の顔を見たくないと思ってしまったからだ。
「でも、また捨てるのもかわいそうだよ」
 妹の杏子の言葉に一同はおし黙る。小学一年生の少女にとっても子犬の生命は軽いものではない。ダメだからと簡単に捨てるのは教育上好ましくないだろう。
「じゃあ、健と協力してこの子の面倒を見てくれる人がいたら、期間限定つきで許しましょう。誰かいない?」
 母親の言葉に次男坊は恐る恐る兄姉の顔を見た。
「仕方ないわね。私で良かったら世話して上げるわよ」
 綾子が弟の頭をこつんと叩いた。
「姉さん!」
「ただし私にもあんたのおやつを分けてよね」
「もちろんだよ」
 とんでもなく嬉しそうな顔をした健に綾子も母も不思議なものを感じた。いつもは仏頂面をしていて滅多に喜びを顔に現さない子なのに……

 

「……という訳で二週間だけ家におけることになったんだ。ちょうど親父が町内会の旅行に行っていたのが幸いだった。お弟子さんとか、出入りのある人にも頼んでいるから、なんとかなるよ、きっと」
 若島津は明るく言ったが、許可が出るまでのすったもんだは話していない。日向に余計な心配をかけたくなかった。
「本当にすまねえな」
「いいって。犬を飼うのは初めてだから、杏子も興味津々でチロをかまってるし。いい勉強になるよ」
 休憩中のひととき、グランド脇の土手に寝転がって二人は暮れなずむ空を見上げていた。
「あ、そうだ。今日の差し入れは芋の揚げたやつだよ」
「サンキュー。いつもいつもすまねえな」
 広げられた包みの中の芋を摘むと日向は美味しそうに頬張った。
「いいんだって。姉貴が作るのを横取りしてくるだけなんだから」
「それでもさ…しかしあの綾子さんがこんなに料理がうまいなんて思わなかったよな」
 若島津はどきっとしながらも、しれっとしている。
「いかにも体育会系のノリで、家庭的なことはダメですって見えるんだけどな」
「でも姉貴に言っちゃダメだよ。キャプテンにもあげてるなんて事は言ってないんだから」
「ああ、わかってる。でもおいしいな、これ」
 大抵の子は練習に来る前に家で軽くおやつを食べてくる。しかし日向にはそんな暇も食べるおやつもなかった。だから新聞配達から戻った頃にはとんでもなくお腹が空いていた。
 もちろん日向はそんなことを口にしないが、若島津は気付いてしまった。だから何かと持ってきては姉をダシにして日向に味見と称して食べさせていた。
「この前のミートパイや膨れ菓子もそうだけど、どれもとんでもなくおいしいんだもんな。ただで食べさせてもらっているのが悪いくらいだ」
「何かリクエストでもある? それとなく頼んどくけど」
「そうだなあ。お菓子だけでなく、煮っころがしとかもおいしいしな。うーん、なんでもいいぜ。だけどさ、これくらい料理がうまい子を嫁さんに欲しいよな」
「え?」
 若島津はなぜか顔を赤らめた。
「なんだよ、おまえが照れてどうする」
「…いや…だって、まるで綾子さんをお嫁に欲しいって言ってるようなもんだから…」
 珍しくしどろもどろになる若島津に驚きながらも日向は笑っていた。
「いくら料理がうまいからって、俺が綾子さんと結婚するわけねえだろ。やっぱり、もうちょっと女の子らしい子がいいもんな。ケンカする度に空手技をかけられたらかなわないからな」
「そうだけど。いや…あんたが俺の兄貴になったらどうしようって思っちゃって」
「はは、いいや! おまえが弟か!」
 馬鹿みたいに笑い転げる日向を放って若島津は立ち上がった。若島津はどういう訳か、ちょっと怒ったような顔になっている。
「いつまで笑ってるんだよ! さあ、早く練習を再開しよう! 陽が完全に沈んじまうよ」
「おう!」

 

 もうすぐ約束の二週間が終る。しかし、まだチロの飼い主は見つかっていなかった。学校でもそれとなく探しているのだが、なかなか見つからない。一人だけ飼ってもいいといってきたのがいるが、そいつは有名ないじめっ子で若島津はそいつのことが嫌いだった。こんな奴にチロを任せたくなかった。
 だがこのまま見つからなければ、あいつに頼まなければならないだろう。そうしないとチロは保健所で殺されてしまう。
「ただいま!」
 学校から駆け戻った若島津はチロのいる中庭に顔を出した。
 真っ先に彼の目に入ったのはチロではなく、母の戸惑ったような顔だった。
「母さん、どうしたの?」
 妙な不安を覚えながら聞いてみる。
「餌くらいならあげられると思ってきたんだけど、チロがいないのよ」
「え?」
「首輪がゆるんでいたのかも…」
 若島津は地面に投げ出されている首輪を見つめた。
「お弟子さんに頼んでそこらを探してもらったけど見つからなくて…ねえ、健、ちょうどいい機会だから…」
「探してくる!」
 駆け出そうとする息子を母は引き止める。
「どうせ見つかってもウチでは飼えないのよ。このまま…」
「だけど!」
「健!」
 若島津は母の手を振りきって駆け出した。
 このまま放っておけば厄介なことから解放される、それは若島津にもわかっていた。どうせ見つけてもチロの運命は変えられないだろう。
 でも最後まで諦めたくなかった。あんないじめっ子でも、もしかしたらチロを可愛がってくれるかもしれない。それにこの近辺は野良犬が多いのだ。あんな無防備な子犬などひとたまりもないだろう。そんなことになったら、それこそ日向に申し訳が立たない。
 だが、いくら探し回っても見当らない。
 すっかり日は落ちてしまった。しかし若島津は諦めきれずに路地裏を歩き回っていた。
(日向さんになんて言おう…)
 絶望的な気分に支配されそうになった。その時、
 クゥーン
 小犬の鳴き声だ。若島津は視線をめぐらせた。かなり暗いが、その位置を見極める。
「チロ?」
 確かにあれはチロだ! 道の真ん中で怯えたように小さくなっている。若島津は駆け出した。
「チロ!」
 たまらない嬉しさと安堵感にチロに思わず頬摺りをする。チロも鼻をクンクンと押しつけてくる。
「こいつ、心配したんだぞ。でも無事で良かった。さあ、帰ろう」
 しかしチロをしっかり抱きしめて歩きだそうとした瞬間、若島津の体は飛んでいた。

 

 目が覚めた時、若島津は体中が痛くて思うように動けなかった。熱でもあるのか、頭もぼうっとしていて何が何だかよくわからない。それでも周囲の人々の声で、自分が交通事故にあった事を理解した。
 大型トラックがライトもつけずにあの路地裏を制限速度をはるかに超えて走ってきたのだ。反射神経には抜群の自信のある若島津でも避けられなかったのだから、とんでもないスピードだったのは間違いない。
 しかし左肩と右足の骨折だけですんだのは、それこそ若島津だったからだろう。打ち所が悪ければ即死してもおかしくなかったという医師の声も聞こえた。
「足の方はきれいに折れていますから、案外早く治るでしょう。問題は肩の方ですね。少なくとも夏休みが終るまではギブスをつけていないといけないでしょうね」
「そんな!」
 それじゃあ、県体会はもちろんのこと、全国大会にだって出られない!
 若島津は悔しくて涙が出そうになった。医者達がいる手前、必死に我慢する。
 心配そうに息子の顔を覗きこんだ母に、若島津はもうひとつの気掛かりを口にする。
「…チロは?」
「チロは無事よ。あんたがしっかり抱えてたから」
「そうか、よかった」
 弱々しく微笑んだ息子の髪を撫でながら、母は優しい笑顔を向ける。
「そのチロのことなんだけどね。あんたがチロを探しに行った後、お弟子さんの佐伯君が来てね、チロを飼いたいって言ってきたの」
「本当に?」
「ええ、だから安心しなさい。チロは大丈夫よ」
「うん…ありがとう、母さん…」
 若島津は薬のせいか、安心したからか、眠気を感じた。ゆっくりと目を閉じる。
 それを見守ってから、今後のことを医師と相談するために母親は病室から出ていった。
 静寂が病室を包む。
 が、しばらくして、静寂は派手な足音にぶち壊された。
「若島津! 大丈夫か!」
 病室に飛びこんできた日向の声に、若島津はパチッと目を覚ました。
 若島津の顔を見る日向の顔は今まで見た事がないほど青ざめていた。
 しかし、それは無理もなかった。昨夜、屋台のバイトから帰ってきて初めて若島津が交通事故にあったと聞き、どのようなケガかもわからないまま日向は一晩を過ごさなければならなかった。そして今朝、学校に行って若島津の妹から詳しい話を聞いて、ようやくケガの程がわかったのだ。
 そして気付いた時には学校を抜け出していた。いてもたってもいられなくなってしまったのだ。
「すみません、キャプテン…」
 とりあえずはっきりと口をきいた若島津に安堵した日向はなんとか顔色を元に戻してベッド脇に立った。
「謝ることなんかねえだろ。右足と左肩だってな」
「今のところ、それ以外は打ち身くらいでたいして痛くはないけど……大会に出られそうになくて…」
 一番言いずらかった事を口にした途端、とうとう涙が出てきてしまった。右手で必死に拭うが、どうにも止まらない。
「すみません…本当に…すみません…」
「何度も謝るなっ!」
 日向は怒鳴ったが、目は怒っていなかった。
「チロを助けようとして事故にあっちまったんだろ。謝らなけりゃならねえのは俺の方だ。すまなかった」
 日向の目がわずかに潤んでいる。若島津は自分も泣いていたのを忘れて日向に右手を伸ばした。
「キャプテン…違うよ。ただ俺がドジだったから…」
「若島津…」
 日向は若島津の右手をぎゅっと握った。
「もういいから、ゆっくり眠れよ。少しでも早く治して、また一緒にサッカーをやろう」
「…はい…」
 日向の熱い体温が若島津の手に伝わってくる。それとともに安心感がわいてきて、また眠くなってきた。
 若島津はふうっと目を閉じて、やがて安らかな寝息を立て始めた。日向は若島津の手を握ったまま、しばらくその寝顔を見つめていた。
(ありがとうな、若島津…絶対におまえのためにも優勝してやるからな)
 若島津の手をより一層強く握って日向は誓った。

 

歩み/Hand1/Hand3