Hand To Hand 1

 

 小雨の降りしきる日だった。
 その日は珍しいことに、サッカー大好き少年の日向小次郎が練習に来なかった。いつも休みともなれば、こんな小雨などものともせずに率先してボールを蹴っている日向なのに。
 そのつもりでグランドにやってきた若島津健は拍子抜けし、早々に家に帰ることにした。日向がいないのなら、道場で空手の練習をしている方がいい。
 だが家に帰った若島津を待っていたのは思ってもいなかった訃報だった。この数か月というもの、ずっと余所で働いていた日向の父親が脳溢血で亡くなったというのだ。
 家が近所で子供二人が同級生ということもあり、若島津家と日向家とは親しくしていた。しかし若島津の家の子供達は日向の父親をよく知らなかった。日向家の人々がこの明和市に越してきた四ヵ月前からずっと父親は遠くの街で働きずめで、若島津家の子供達は会った事がなかったのだ。
「この数日ですっかり老けこんだみたいで見ていられなかったわ。子供達もまだ小さいし。これからどうするのかしら」
 通夜から戻った母親の声だ。居間でうたたねをしていた若島津はその声で目覚めた。
「借金もあるっていうし…」
「生命保険があるだろう?」
「借金を抱えた時にほとんど解約したらしいわ。借金を返して、四人もの子供を育てていくには微々たるものしかないみたいよ。お金のことは私達にもどうにもならないけど、せめて…あら! 健たら、こんなところで寝て」
 居間に入ってきた母親は今までの会話を思い返し、青くなった。きっと息子には聞こえていたに違いない。だが彼はいつもと変わらない表情で母親を見上げた。
「お葬式は明日?」
「え…ええ。あんたも行く?」
「うん、行きたい」
 母親は素直に返してきた息子の頭をそっと撫でる。
「健、小次郎君もこれからは大変だろうから、力になってあげるのよ」
「…うん、わかってる」
 翌日も雨だった。
 まるで誰かが泣いているみたいなシトシト雨だ。
「出棺です」
 泣き疲れたような子供達を連れて日向の母親が出てきた。その後から、日向が写真を抱えて出てくる。写真の中の顔は少し線が細い感じだが、造作そのものは日向そっくりだった。その写真の顔に若島津の胸がきりきり痛む。当の日向はというと、泣いてはいないが、むっつりしたような無表情で地面を睨みつけている。
 思わず若島津はじっと見つめてしまった。その視線に気付いたのか、日向が不意に顔を上げた。
 若島津と視線があった。一瞬、堅かった表情が崩れた。すぐにさっきまでの無表情に戻ったが、若島津はその崩れた表情を見逃さなかった。
 泣きだしそうな、とても頼りなげな顔をしていた。普段の気の強い日向からはとても想像できない顔だった。
「日向さん…」
 日向達が出発した後も、若島津はしばらく不思議な胸の痛みを感じていた。初めて感じる痛みだ。
 この痛みは一体なんだろう。

 

 日向は一週間経っても練習に顔を出さなかった。葬式の日以来会っていない若島津は迷いながらも家を訊ねてみることにした。
「お兄ちゃんはまだ帰っていないよ」
 出てきたのは尊で、後に勝と直子を従えている。その表情が少し強ばっているのはこの一週間のせいだろうか。若島津は尊と目線を合わせるように屈んだ。彼の優しい表情に尊の強ばった顔も少しだけ和む。
「お母さんは?」
「昨日から仕事だよ。いつまでも休んでいられないって」
「お兄ちゃんはどこに行ったのかな?」
「わかんない」
 今まで後ろにいた直子と勝は表に出て遊び始めていた。まだ幼い二人には父親の死はよくわかっていないのだろう。
「そうか。それより、三人で留守番は大丈夫かい?」
「平気だよ」
 決して他人に弱みを見せたくないというのは兄と同じらしい。尊はキッと唇を引き結んで若島津を見上げた。
「尊君は偉いな。でも何かあったらすぐにお隣にでも駆けこむんだよ」
「ちゃんと、どうすればいいか教えてるよ」
「日向さん!」
 振り仰ぐと、そこには日向がやけに無表情な顔をして立っていた。
「何の用だ」
 いつになくぶっきらぼうな口調に若島津は戸惑うが、変わらない表情を努める。
「練習にも来ないから、どうしたのかと思って。でも元気そうで安心した」
「俺はもうサッカーをやらねえんだ。今日にでも監督ん所に行くつもりだったんだがよ」
「なっ! どうして!」
 思いがけない言葉に、若島津は尊達の存在も忘れて日向のシャツを掴んでいた。が、日向は無表情な顔を変えず、若島津の手を払った。
「しょうがねえだろ。親父が亡くなって、おふくろだけじゃあ暮らしていくのは大変なんだ。借金だってあるしよ。俺が少しでも家計を助けなきゃやってられねえんだ。現に今、新聞配達のバイトを決めてきたところだ。いつまでもガキみたいに球けりをできるかよ」
「!」
 若島津は咄嗟に日向の頬を殴り倒していた。本気の拳に、日向はしばらく立ち上がれなかった。
「ってぇ! 何すんだ!」
「日向さん…あんたにとってのサッカーって、そんな、そんな簡単に諦められるもんなんですか! 俺は…!」
 叫びながら、若島津は自分がとんでもなく勝手なことを言っていると思った。日向の家庭の事情を考えれば、彼の選択は仕方ないのかもしれない。恐らく日向自身が一番傷ついているのだ。それなのに部外者の自分が日向を責めるのはお門違いだ。そう思いいたって、若島津はいきなり駆け出した。
「おい、若島津!」
 ただ一途にサッカーを愛している少年に不思議な魅力を感じてサッカーを始めてからまだ半年にもならなかったが、若島津は日向のサッカーへの思いの深さを充分に知っていた。
 だが今の自分は無力だった。サッカーをやめるといった日向を前にしても、ただ叫ぶことしか出来なかった。自分には彼の為に何も出来ないんだ。そう思い知らされる。
「若島津、待てったら!」
 どういう訳か日向は若島津を追いかけてきていた。だが若島津は振り向こうともせず明和グランドに向かって走っていた。
 また雨がポツポツと降り始めた。その中をかまわず若島津は駆けていく。
「おい!」
 ようやく腕を捕まえた日向は無理矢理に若島津を引き止めた。
「人をなぐっといて、なんで逃げるんだよ。えっ?」
 が、日向は一瞬言葉に詰まってしまった。振り向いた若島津が泣いていたのだ。
「な、なんでてめえが泣くんだよ。俺が泣くならいざ知らず…っとに変な野郎だぜ」
「……ゴメン。あんたが大変なのは知っているのに…でも、でも、俺は!」
 若島津は溢れてくる涙を止めようともせず、日向の顔を見上げた。
「やっぱり、あんたにはサッカーをやめてほしくない。勝手だって事はわかってる。でも俺をサッカーに引きずりこんだのは、あんたなんだ。その責任を取ってくれよ」
「若島津…」
「……いいよ、もう! 今のは忘れてくれ!」
 何も言えない日向の肩をポンと突き放して、若島津はまた駆け出した。
 日向は土手にぼうっと立ったまま空を見上げた。低く垂れこめた黒い雲から冷たい雨が静かに降ってくる。
『そらっ、小次郎、おまえへのプレゼントだ』
『サッカーボールだ! いいの? 父ちゃん』
『ああ。おまえはサッカーが大好きだもんな。これを蹴って、もっともっと上手くなるんだぞ』
『うん! 俺、一流のプレイヤーになって、父ちゃんと母ちゃんに楽な暮らしをさせたげるよ。絶対だよ』
『ははっ! よし、今の言葉を忘れないぞ。小次郎、おまえが一流のプレイヤーになる頃には父ちゃんもちゃんと借金を返し終わるからな』
『絶対だぜ、父ちゃん。でなきゃ、俺が建てる家に父ちゃんを住ませないからな』
『おっかないなあ、小次郎は。でも約束だ』
『うん。約束だ』
(……父ちゃんのウソつき。何が約束だ。何が…)
 不意に今までずっと堪えていた涙が溢れ出てきた。
 それに気付くと、日向は若島津が駆けていった方向に向かって走りだした。

 

 雨の中を若島津は一人でボールを蹴っていた。
(俺じゃ日向さんの力になれないのに、あんなことを言っちまうなんて。大体、サッカーに誘われたのは確かだけど、選んだのは俺なんだ。日向さんに責任を取ってくれなんて、なんて馬鹿な事を言ったんだろう)
 足元が狂った。ボールが大きくポンと空に舞い上がった。
「下手くそ!」
 グランドに勢いよく走りこんできた日向に若島津は目を見張った。
「日向さん!」
 ぬかるんだグランドをものともせず、日向はドリブルしてくる。
「キーパーは一人っきりじゃ練習できないだろ。相手をしてやっから、さっさとゴールの前に立てよ」
「え…はい」
 若島津は思ってもいなかった展開に戸惑いながらゴール前に立った。日向がその前に立つ。
 若島津はまだ日向のシュートを十本に一本しか止められなかった。がっちりとキャッチするとなると、もっと確率は下がってしまう。
 だが日向は根気よく若島津の練習につきあっていた。まだまだ経験不足だが、これからもっと強くなる見こみがあるし、なによりもゴール前に立っている時の若島津の挑戦的で強気な瞳が日向は好きだった。きっとこいつなら俺のいいパートナーになるだろう、そう思っていた。
 これまで自分と対等に張れる奴と会った事がなかった日向が、初めてその存在を認めたのが若島津だった。だから、こいつだ!と思った瞬間から、若島津をなんとしてもサッカーに引きずりこもうとしたのだ。そして若島津もそれに応えてくれた。
 こうしてシュートを放とうとしている時も、ゴール前でかまえている若島津の姿を見ると、自分の目に狂いはなかったと確信する。
「行くぜ!」
「おうっ!」
 雨の中を日向の強烈なシュートが引き裂いていく!
「ぐっ」
 真っすぐに若島津の正面に飛んできたボールを必死に押さえる。体がゴールラインの中に押し込まれそうになるが、なんとか踏張る。右膝が地面に着いた。
「取ったよ」
「ああ…」
 日向が若島津に手を差し出した。まだ腹が少し痛かったが、若島津はなんとか堪えて立ち上がった。
「出来ると思うか?」
「え?」
 不意に投げかけられた問いの意味がわからず、若島津は日向の顔を見つめ返した。目が真っ赤だ。
「働きながら、サッカーを出来ると思うか?」
「出来るよ、あんたなら。サッカーが好きなんだろ。だったら出来るよ」
 若島津はまた涙が出てきてしまった自分に慌てながらも断言していた。日向なら、どんな状況に陥っても諦めないだろうと信じていた。だからこそ、きっぱりとやめると言われ、あんなにショックを受けたのだ。
「奨学金制度だってあるんだし、あんたくらいサッカーが上手ければ、特待生になる機会もある。だから諦めるなよ。弱気なあんたなんか見たくねえよ」
 日向は、若島津にシュートを放った時にやってみようと決めていた。サッカーをやめることは逃げることだ。それこそ死んだ父親以上の約束破りになってしまう。
 それに、ようやく得たこの若島津健という相棒がいれば、なんだって出来るような気がしてくるのだ。若島津に殴られるまで、日向はそのことをすっかり忘れていた。
「うん、そうだな。若島津、がんばるぜ」
「日向さん!」
 若島津は思わず日向に抱きついていた。
「おい、なにすんだ!」
「だって、だって…」
 肩から聞こえてくる若島津の泣き声に日向の涙腺もまたゆるんできた。
「バカ野郎。おまえが泣くから、俺まで泣きたくなっちまったじゃねえか…」
 日向もとうとう泣きだしてしまった。
 せめてもの救いは雨が降っていることで、互いの涙は雨で流されていく。
 日向には冷たい雨が少しだけ温かく感じられた日だった。

 

歩み/Hand2