夏を抱きしめて1 〜2〜 

 

 彼、ユリウス・ケンジロウ・ファーレンハイトはドイツ人を父親に持つハーフで、東邦学園には高等部から転入してきた帰国子女だ。母親が小泉京子の従姉で、東邦学園理事長の親戚でもあるから、新顔にしては有名な生徒の一人だという。
 中等部の若島津はそんなことを知る訳もなかったが、寮に向かう前に小泉達と一緒に入った大学の茶店で自己紹介をされたのだ。
「この子ったら日本語がすごく上手でしょ。外見が完全に外人だから、初対面の人はみんなびっくりするのよね」
「六歳まで日本で暮らしていたからな」
「でも十年のブランクがあるとは思えないな」
「母さんとは日本語で話していたんだ。いつか日本に戻ることがあるかもしれないからって」
 若島津より5センチほど背の高いユリウスは人懐っこい笑顔で若島津を見ている。あんまりあからさまに見られてなんとなく恥ずかしいが、悪気はなさそうなので若島津も初めの警戒心をといていた。
「昔は二度と日本になんか来るもんかって言ってたくせに。変われば変わるものね」
「京子、それは言いっこなしだよ。だって、あれを見せられたんだ。考えも変わるさ」
 また若島津の方に意味ありげな視線を向ける。
「君達の試合のビデオを見たんだ。それで、直接君達のサッカーを見たくなって日本に来た」
「そんなことで…?」
「そんなことって! 君達のサッカーは小学生とは思えないほどパワフルで面白かったんだから」
「あ、ありがとう」
 力強く言い返すユリウスに若島津はただびっくりするだけだ。
「フフ、二年前のあの決勝戦のビデオを送ったら、すっかり二人のファンになっちゃってね。ケンったら…ユーリって言った方がいいわね、日本の学校に行くなんて言い出すんだもの、効果がありすぎて困っちゃったわ。それで、ユーリもそろそろ日本に慣れてきたから君達に引き合わせようって思った訳よ」
「でも俺はまだレギュラーじゃないし怪我で休んでるから。なんとなく格好悪いな」
「そんなことはない。故障と必死に戦うのは立派なことだ」
 今までずっと笑顔だったユリウスは意外なほどビシッと言い切った。
「諦めてしまうより、ずっといい」
 それきり黙ってコーヒーに口をつけてしまった彼に代わり、小泉が言った。
「ユーリは昔サッカーをしていたの。でも右足首を傷めてね…」
「今でも諦めなければ良かったと思うことがあるんだ。あの時、もっともっと努力をしていれば、今でもサッカーをしていられたかもしれないってね。だから君には頑張ってほしいんだよ、ケン」
「そうね。世界で活躍するプロで故障と無縁の人間なんてほとんどいないものね。故障とうまくつきあっていけなきゃ、一流の選手になんかなれないわ」
「小泉さんは…俺の肩のことを知っていらっしゃるんですね」
「藤井先生に相談されたの。北詰監督に報告しないでいいものかって」
 そこで一旦言葉を切り、若島津を真正面から見つめた。
「君は自分で自分を駄目にする人間じゃないって信じてるわ。だから、私からも先生に頼んでおいたわ。監督には話さないようにって」
「小泉さん…」
「彼も悪い人じゃないんだけど、少々頭が堅いでしょ。だから、しっかりと正キーパーの座を奪い取るのよ」
「はい」
 素直に頷いた若島津をユーリも優しく見つめていた。

 

 小泉とユリウスが寮を後にしたのは消灯時間30分前だった。
 日向は憮然としたまま談話室に座っていた。湯呑みを洗って戻ってきた若島津はその日向の肩を軽く叩いた。
「なに、ぼうっとしてんです。そろそろ寝支度しないと」
「なんだってんだ、あの外人は。好き勝手なことをペラペラと。なにが惜しかっただ。2点差もつけられたんだぞ」
 小学校の時の決勝戦の話を持ち出されたのが日向には気に入らなかったらしい。大空翼の凄さはそれなりに認めていても、当事者には落ち着いて思い出せるほどの心のゆとりはない。まだ、たったの二年しか経っていないのだ。
「おまえもおまえだ、にこにこと笑いやがって」
「なんですか。むやみに無愛想にする必要もないでしょ。それにユーリはいい人だと思うし」
「名前が気にくわん」
 憤然と言って立ち上がった日向に若島津は吹き出した。
 ユリウスの日本名、ケンジロウは漢字で、まるで日向と若島津の名前を足したように“健次郎”と書くのだ。
「彼の方が先に生まれたんだから文句を言う筋合いはないですよ。まったく、おかしなことに突っかかるんだから」
 まったく相手にしないで部屋に戻る若島津の背中を見ながら、日向も渋々歩きだした。
 彼は面白くなかったのだ。ユーリと笑顔で話している若島津はいつも自分が見ている彼とはなんとなく違う気がした。おまけにケガのせいで若島津とのシュート練習もしていないものだから欲求不満状態でもあった。
 その上、先程の話の中で、若島津はユーリにドイツ語を習うことになったのだ。ケガが思っていた以上に長引くため、三週間ほど練習を休むことになり、その暇を利用して、ということなのだが、それも日向には気に入らない。
 そして、なんといっても一番気に入らないのは若島津を見るユーリの視線だ。自分に対してもかなり親しげにしていたが、若島津に対してはあからさまなほどの好意が感じられた。いやらしさのかけらもない爽やかな態度なんだが、日向にはどうしても引っかかる。
「おまえ、ドイツ語なんか習ってどうすんだ」
 日向が聞くと若島津はしれっと答えた。
「サッカーはワールドスポーツですからね。どこと対戦してもビビらないように勉強しとこうと思って。日本語しかわからないようじゃ外人に馬鹿にされますしね」
「英語なんかペラペラじゃねえか」
「英語は当たり前の時代ですよ、日向さん」
「フン! 悪かったな、どうせ俺は英語が苦手だよ」
「そんなに怒らなくても…まったく、すぐ怒るんだから」
 わざと日向の苦手な英語に話を向けたのが成功し、それ以上は追求されずにすんだ。

 

 早速翌日から、若島津は放課後になると東邦大の近くにあるユーリの家に通うようになった。その家は元々、彼の母の実家だったが、本来その家に住むべき母の親族は仕事に便利な都内のマンションで暮らしているため、ユーリが戻ってくるまで空き家同然だった。
 見た目はかなり古い洋館だが、内装は現代化されており、すべての部屋には空調も設備されていた。
「ここに一人暮らしなのか?」
 比較的狭い部屋のテーブルに陣取ってテキストを広げながら、若島津はつい聞いてしまう。
「まさか。俺が来る前から管理人の夫婦が住んでたし、俺が来てからは、昔、母の世話をしてたっていう人が家政婦をやってくれてるんだ。あ、それに親父の秘書が時々やってくるし、京子も泊りにきたりするから、結構人の出入りは多いよ」
「へー、小泉さんも。でも悪かったな。高等部の勉強も大変なのに、こんなことを頼んじゃって」
「かまわないよ。君が俺の母国語を覚えてくれるなんて、とても嬉しいから。それじゃあ始めようか」
 早速、アー、ベー、ツェー、とアルファベットから始まった。その覚えの速い生徒の顔を時折ユーリが熱く見つめているが、ひたすらドイツ語に夢中な生徒は気にも止めずに授業を続けていた。

 

「もうガマンできん!」
 日向は切れかかっていた。毎日毎日、若島津がユーリの家にドイツ語を習いに行くのはまだいい、ガマンもしよう。どうせ練習に参加できないんだから。だが寮に帰ってまで復習されると、苛立つものを感じずにいられない。
 しかも肝腎のサッカー部の練習が最悪だった。正キーパー木場は練習に参加しない若島津に安堵したのが、すっかり我がもの顔でキーパー陣を仕切っている。
 で、なんとなく不愉快な日向は、木場を目がけて思いっきり鋭くて重いシュートを放ってやった。今まで木場には遠慮して撃っていなかった弾丸シュートだ。それを見事に木場は避けきり、というかゴールから逃げだした。当たっていれば絶対にどこかにケガの一つもさせられたのにと日向は残念に思う。
 それ以後、木場は日向のシュートを避けている。おかげで、ろくなシュート練習も出来やしない。情けない奴だと思う。若島津なら意地でも取ってやると何度でも食らいついてくるだろうに。日向は若島津と練習したくてたまらなかった。
「おい、今日は俺も一緒に行く」
 だから理由もなく、日向は言ったのだった。言われた若島津はきょとんとして日向を見返した。
「部の練習は?」
「今日は腹が痛くて休む」
「……よもや、一緒にドイツ語を勉強したいって訳じゃないんですよね?」
「とにかく行く。言っとくがな、今日このまま練習に参加したら俺は確実に切れるぞ」
 反町から日向がかなり煮詰まっているようだと聞いていた若島津は軽く溜息をついて、しかたなしげに頷いた。
「本当にあんたにはつまらないだけですからね」
 念を押してみたが無駄だった。
「それより、練習に参加しないってのは納得するが、もっと運動した方がいいんじゃねえか。朝のロードだけじゃ体力が落ちるぞ」
 道すがらのもっともな指摘に若島津は苦笑を見せた。
「大丈夫ですよ」
「しかしな!」
「それより木場さんに怪我をさせないでくださいよ。俺は正正堂堂と勝負をしたいんだから」
 言われたくないことを言われ、日向は不貞腐れたように黙ってしまった。まだまだ若島津の口には日向は勝てない。
「今日は珍しいお客様が一緒だね。嬉しいよ、日向」
 ドアを開けるなり、嫌な顔一つせずに言ったユーリに日向は少し後ろめたさを感じた。
 本当は、毎日毎日楽しそうに通う若島津を見ていて、言いようのない不安を感じていたのだ。それを知ったら若島津はきっと怒るだろうが、もしかしたらここでドイツ語の勉強以外のことをしてるんじゃないかと疑ってもいた。しかしユーリの表情には後ろめたさなどかけらも見えない。日向は自分の疑り深さに溜息をつきたくなった。
 ドイツ語の勉強を始めた二人を見つつ、日向はユーリから借りた本場ドイツのサッカー雑誌を開いた。何が書いているのか全然わからないが、ブンデスリーガの熱いプレイを写真越しに感じる。
 ふと見慣れた男の写真が目に入った。若林だ。
 ハンブルガーFCのユースでキーパーをしている日本人として紹介されているようだ。小学生の時よりもさらに太太しさを増したように見える。
(おまえもこの記事を見たのか?)
 顔を上げて若島津の背中を見つめる。
 どんな気持ちでこの記事を見たのだろう。二年前の夏、若林は優勝チームのキーパーとなり、自分達がその屈辱を晴らすこともできないまま、ドイツに渡ってしまった。そして今はユースとはいえ、ドイツの高いレベルの中で揉まれている。
 一方の若島津は去年の夏の大会では補欠にもなれず、南葛中学に優勝をさらわれるのをスタンドから見ていなければならなかった。そして今はケガを負い、練習も出来ずにいる。
 その差を若島津は嫌というほど感じたはずだ。
(そうだよな。俺よりも誰よりも、おまえが一番辛いんだよな。おまえと練習できないからっていじけてるなんて俺の甘えでしかねえな)
「…日向? 休憩時間なんだが?」
「おわっ!」
 いきなり青い目にアップで迫られ、日向は慌てて腰をひいた。しかしユーリは気にする風も見せず、テーブルに招いた。テーブルには日向が気兼ねしてしまいそうな上品な茶器とクッキー、チョコレート、ミニケーキと、美味しそうなお菓子が盛られている。
「で、どれくらい上達したんだ」
 横に片付けられたテキストを覗きこむが、細かく並ぶ横文字に日向は目眩を覚える。クッキーをつまみながら若島津は軽く手を振った。
「単語のストックがまだまだ足りないから、ヒヤリングしてもピンとこなくて。でも、発音は上手くなってきたよな?」
「ああ、ケンは呑み込みが速いから教えがいがあるよ。学校でも成績はいいんだろう?」
「ああ、サッカー部では間違いなくトップだし、クラスでも常に五位以内だ、な?」
「そんなことないですよ。大袈裟だな、日向さんは」
「なにが大げさなもんか。この前、おまえんとこの担任が言ってたぞ。おまえならサッカーしながら東大も目指せるって」
「ケン、どうせなら東大じゃなく、ドイツ留学をしたらどうだ! いい大学はたくさんあるし、サッカーの為にも絶対にいいぞ」
「え?」
「ケンなら絶対にドイツでもやっていける」
 目を輝かせながら若島津の両手を握って力説するユーリを、日向と若島津は呆気に取られて見つめる。
 日向は何を言ってやがるんだと殴ってやろうと思ったが、出来なかった。確かにいい話かもしれない。若林と同じ土俵に立ったら、今度はきっと負けないだろう。
 が、若島津は吹き出してユーリの手から逃れた。
「残念だけど、それは出来ないよ」
「どうして!」
「だって俺はまだ翼に勝ってない。あいつに勝てないまま逃げるなんて冗談じゃない」
「ハ…ハハ、そうだよな。俺達は翼を倒したくて、ここに来たんだもんな」
 きっぱり言い切った若島津が嬉しくて、日向は思わず笑っていた。若島津も笑いながら日向を見る。
「それに日向さんのゴールをスタンドから見てるのは胃にとっても悪いからね」
「残念だな。だが俺も簡単には諦めないよ」
 ユーリは溜息をつきつつも、予想していたのかそれほど落胆していない。それどころか明るい笑顔で若島津の肩を叩く。
「さて腹ごしらえもすんだし、練習しようか、ケン」
「え、今日は…」
 若島津は慌てたように手を振った。
「今日はパスするよ」
「ダメだ。言いだしたのはケンだぞ」
「だけど」
「なんのことだ?」
 訳のわからない日向は若島津とユーリを交互に見る。ユーリは立ち上がって日向の背中を押した。
「日向も見るといい。さあ、ケン」
 若島津は渋々と立ち上がった。相変わらず事情が呑みこめない日向は不思議そうに若島津を見た。が、口を開く前にユーリに手を引っ張られるようにして部屋から連れだされた。
「どこに行くんだ」
「中庭だよ。大丈夫。ケンは後から来るから」

 

歩み/BACK/NEXT