夏を抱きしめて1 〜1〜

 

「いつ見てもいい光景だわね」
 小泉京子は金網の向こうの光景をうっとりするようなまなざしで見つめていた。そこには東邦学園中等部サッカー部の熱い練習風景がある。
 彼女の意中の人物は三年の正キーパーを相手にシュート練習をしており、さっきから一発も外していない。さすが一年生でフォワードのレギュラーを取っただけのことはある。
 一方、彼の本来の相棒とも言える二年の補欠キーパーは反対側のゴールで一年生のシュート練習の相手をしている。こちらは九十パーセント以上の確率でシュートを止めている。
「あんなザルキーパーが相手じゃ、日向君もやりがいがないでしょうね」
 自分が思っていたことを呟かれて、小泉は隣の女性徒を見た。その女生徒も顔を上げてにこっと笑う。
「小泉先生もそう思いません?」
「あなたは…三年の御園さんよね」
 顔やスタイルは並だが、成績はトップクラスで機転もきく生徒として小泉は記憶していた。
「はい。誰がどう見たって木場君より若島津君の方が上手いと思いませんか? 背はまだ木場君の方が高いけど、手も足も若島津君の方が大きいし」
「そうね。動きも読みも全然違うものね」
「断然、若島津君の方が上だわ」
 二人の声がハモッた。
「!」
 顔を見合わせて二人して笑いだす。
「あなたは若島津君のファン?」
「いえ。私はただ日向君と若島津君の二人のプレイに見惚れちゃったんです。サッカーをしてる時の二人って、とっても生き生きしていて輝いてるんですもの」
「そうね。確かにいいわね、あの二人は」
 二人はフィールドの両端でそれぞれ練習を続ける日向と若島津を目で追った。
「まあ、彼がレギュラーの座を取るのは時間の問題でしょ。先輩というだけでレギュラーを守っていけるほど東邦は甘くないわ」
「はい。ところで小泉先生にご相談したいことがあったんです。少しよろしいですか?」
 笑顔で見上げてきた御園に自分と同質のものを感じながら、小泉は彼女の相談とやらに耳を傾け始めた。

 

 小泉と御園が思ったとおり、サッカー部では正ゴールキーパーの座をめぐって熾烈な争いが起っていた。まだ五月だが、夏の大会に向けてのスパートはすでに切られている。
 もっとも躍起になっているのは現在の正キーパー木場晃一だけで、一方の当事者である若島津健は普段となんら変わらない態度で練習をしていた。しかし、それがなおさら木場を苛立たせる。馬鹿にされたようで、若島津の顔を見るだけでムシャクシャしていた。
 そんな時に都内ベスト8の常連、峯岡中学との練習試合が東邦グラウンドで行なわれた。当然キーパーは木場だった。
「日向ー!」
「おうっ!」
 二年のエースストライカー日向小次郎は味方からのパスを受け取ると、グングンと加速をつけて敵ゴール目がけて走る。
「でぃやー!」
 行く手を阻むディフェンダーをものともせず蹴散らし、豪快なシュートを放った。キーパーの手にも触れさせず見事に決まった。これで4対1、前半にしてほぼ勝負は決まったようなものだった。
「おい、木場」
 ハーフタイムになって三年の佐々木が木場を呼んだ。
「これ、使えよ」
 差し出したのは小さな革の袋だ。
「あのな……」
 耳元でコソコソと囁かれた言葉に木場は一瞬躊躇した表情を見せた。が、初等部からのつきあいの佐々木に説得され、最後には頷いていた。
「なあに、失敗してもともとさ。うまくいってくれりゃあ、恩の字。それ位の気持ちでいいさ」
「ああ、そうだな」
 木場は頷いて、日向にタオルを渡している若島津を一瞥した。
 後半10分に日向が追加点を入れた直後に、それは起った。峯岡中学のストライカーが右隅に蹴りこんだシュートを取ろうとした木場がボールを変な風に弾き、その場にうずくまってしまったのだ。
「どうした!」
 主将の青木が駆け寄ってくる。木場は苦しげに顔を上げた。
「すみません、ちょっと腹痛がして…」
 腹を抱えたまま、ようやくといった風に立ち上がる。
「代わった方がいいんじゃないか?」
「ああ、顔が真っ青だ。」
 佐々木がさも心配そうに大声で言った。
「そうだな、たかが練習試合だしな。監督!」
 主将の青木は何も疑わず、監督を振り返った。
「仕方ないな。若島津、行けるか?」
「はいっ!」
 勢いよく立ち上がった若島津は大きく深呼吸をしてフィールドへと入っていった。木場とすれ違う時一瞬妙な雰囲気を感じたが、初めての舞台を前にしての緊張と重なり、若島津は意識に止めなかった。
「若島津!」
 ボールをキックしようとかまえたところでかけられた日向の声に緊張の糸が解れていく。
 大丈夫だ、自分はこの数少ない機会をものにするために今まで練習を重ねてきたのだから。 若島津の蹴ったボールはセンターサークルを越え、ストンと、計ったように日向の元へ落ちた。
「よっし!」
 が、日向をマークしていた峯岡中学のディフェンダーも上手かった。日向がトラップしたボールをすかさず取ってしまった。
「ちくしょうっ!」
 日向が奪い返そうとする前に大きく戻される。
「速攻だ!」
 峯岡中学のフォワード三人が一斉に東邦ゴール目がけて走りだした。巧みなパスをかわし、ディフェンス陣を抜き去る。きれいにセンタリングがあがった。
 しかし若島津は落ち着いていた。これまで試合を冷静に見ていた若島津は峯岡中学のシュート力を分析していたのだ。これなら一対一でも止められる。
 案の定、予想したとおりにゴール右隅目がけてボールが飛んできた。咄嗟に飛んだ。右手がボールに触れる。が、その瞬間、右脇腹から着地しようとしているそこに、キラッと光るものを見てしまった。
 慌てて体勢を変えようとするが、勢いよく飛んでしまっていて、それもままならない。なんとかボールを右手と体で抱えこんで、左手をついてゴール前に倒れこんだ。
 実際、一秒にもみたないくらいのわずかな間に若島津はこれだけ判断して動いたのだった。
「っ!」
 左の手首が痛い。若島津はわずかに顔をしかめた。
「どうした!」
 再び妙な倒れ方をしたキーパーに青木達が寄ってくる。一番最初に若島津に声をかけたのは日向だった。
「なんでもありません」
 平然と立ち上がるが、日向がそれで引っこむ訳がない。
「おい、左手を捻ったんじゃねえか?」
 ほんのわずかな手の動きを見ただけで日向は言った。
「平気です」
 しかし答えを聞く前に、日向は若島津の左手首を強く握っていた。思わず顔をしかめてしまった。
「やっぱりな。キャプテン、交替させてください」
 しかし若島津は遮った。
「これくらい平気です。やれます」
 懸命な表情の若島津と日向を青木は見やる。どちらも一歩も引かない雰囲気に彼は困って、監督を振り返った。
「鈴木、行け」
 その瞬間、若島津はうなだれた。が、すぐに顔をきっと上げ、おもむろにかがんだ。
「どうした?」
「いえ、ちょっと」
 気付かれないように、そこに落ちていた二つのガラス片を拾い上げた。ふと視線を感じて見上げると、まずいことに日向が見ていた。内心動揺したが、それを無視して若島津はフィールドを去っていった。
「なにをしているっ!」
 サングラス越しの北詰監督の視線が痛い。だが若島津は目をそらさず言った。
「バランスを崩しました。すみません」
「派手な取り方ばかりしているからだ。もっと堅実なプレイをしろっ」
「はい」
「おい、保健室に行くか?」
 北詰から解放された若島津に同級生のマネージャーが聞いてきた。しかし若島津は関係のないことを口にしていた。
「木場さんは保健室か?」
「そうだけど?」
「そうか。俺はちょっと大学病院に行ってくる」
「え? そんなに悪いのかよ」
「いや、念のためだ。ちょうど定期検診も近いしな」
 明るい口調を努めながら、若島津は体を走るかすかな痛みに耐えていた。

 

 寮に帰ったら、案の定日向は怒っていた。腫物に触るように日向に接していた同室の反町と島野は若島津の顔を見ると、あからさまに安堵したような顔になった。
「なにかあったんですか、そんな膨れっ面をして」
 若島津はしれっと言った。日向のこめかみがかすかに動く。その間に反町と島野は部屋を脱出していた。恐らく小池達の所にでも逃げこむのだろう。
「なにかあったかだと? ふざけんな!」
 日向はテーブルを叩いた。
「なんであのガラスのことを言わなかったんだ! あんな卑怯なことをしたのは木場だって言ってやりゃあ良かったんだ。そのせいでおまえはケガしたんだぞ!」
 予想どおりの罵声を受け取り、若島津は内心苦笑する。が、平静な態度を崩さない。
「木場さんがやったっていう証拠なんてありませんよ。それにゴールに入った時点で気付かなかった俺が悪いんです」
「おまえなっ!」
 日向は身を乗り出して包帯を巻いた左手首のやや下を握った。
「こんなになっても平然としてんのか」
「これくらい、なんてことはないって言ったでしょうが。安静にして精々二週間だってことですから、大会には充分間に合わせますよ」
「しかしなっ!」
「それとも日向さんは俺が実力で木場さんに負けると思うんですか?」
 あまりに静かな口調で言われ、怒気をぬかれた日向はそっぽを向いてボソボソと呟いた。
「思うわけねえだろ。だが、あんな奴がのうのうとゴールを守ってるのは気に食わねえんだ」
 若島津は立ち上がって日向の頭を軽くコツンと叩いた。
「俺もですよ。だから、実力で正正堂堂とキーパーの座を奪ってやります」
「若島津…」
 振りあおいだ日向に、若島津は穏やかな笑みを見せた。

 

 若島津は安静にしろという医師の言葉に従って練習をしばらく休むことになった。練習に参加すれば、無理をしてしまうのは目に見えていた。
 若島津は放課後になると、真っすぐに東邦大学付属病院に向った。主治医の藤井医師の治療を受けるためだ。
「やはり、かなり強い衝撃が走ったようだね」
 藤井が診察しているのは左肩だ。無理な体勢で転んだ時に、二年前に交通事故で怪我をした左肩の古傷まで痛めてしまったようなのだ。
 傷みそのものはたいしたものではなかった。しかし、これからもキーパーを続けようと思っている彼には大きな不安要因であることには違いない。だから昨日もここにきたのだ。
 本当は左手首など、たいして捻っていない。だが肩が痛むと周りの人間にわかれば、正キーパーを狙おうという若島津の立場は微妙なものになる。
 ただでさえ北詰監督は若島津のフィールダーとしての才能の方を買っていて、若島津に再三フィールダーに転向しないかと言っているのだ。今回のことがわかったら、無理矢理に転向させられるかもしれない。
 だから藤井医師にも無理を言って左肩のことは伏せてもらったのだった。
「本当は二年前にもっとじっくりと治しておかなきゃいけなかったんだよ」
 若島津は頷きつつも、後悔していなかった。
 あの時はそれどころではなかったのだ。もし、これから先もっと痛みがひどくなったとしても、あの時、家を抜け出して準決勝・決勝に参加していなかったら、自分はもっともっと後悔することになっただろう。
 それだけ若島津にはあの試合は大切だったのだ。
 治療を終えて大学病院を出ると、雨が振っていた。この季節にしては寒い雨だ。肩にズキズキとした痺れが走る気がする。
 傘のない若島津は一気に走って戻ろうと駆け出した。
「っ!」
 角を曲がった途端、人にぶつかってしまった。相手の傘が飛ぶ。
「すみません!」
「いや…」
 慌てて傘を拾い、相手を見た。
「気にしなくていいよ。転んだ訳じゃないし」
「…」
 思わず相手をマジマジと見てしまった。ひどく流暢な日本語を話す茶髪の外人がそこに立っていたのだ。
「君の方こそ濡れてるじゃないか。傘を貸して上げるから、ちょっと寄っていかないかい?」
 ひどく馴々しい外人だ。若島津は失礼にならない程度に身を引いた。
「いえ、たいした距離じゃありませんから」
「でもキーパーが肩を冷やしたらいけないよ」
「…俺を知ってるんですか?」
「ああ、君は若島津君だろ? 俺は君のファンなんだ」
 にっこり笑って若島津の頭上に傘を差し出した。
「俺はユリウス・ケンジロウ・ファーレンハイト、高等部の1年だ」
「ケン、なにをしてるの?」
 聞き慣れた声に若島津は振り返った。
「あら、若島津君。藤井先生の所からの帰り? 今ね、ケンと一緒に君達の寮に行くところだったのよ」
 赤い傘の合間から、小泉京子が人の悪い笑みをみせていた。

 

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