ファーストコンタクト1
 

 短い春休みを精一杯利用した家族旅行のために期限ギリギリで入寮しなければならなくなった悪友に、一緒に入寮してくれと涙ながらに頼まれて負けた自分が悪かったのだと、後に何度そう思ったことか。
 一番最後に入寮した手前、そして初等部からの先輩に言い渡された以上、部屋の好き嫌いなんか言っていられなかった。
 307号室、東邦学園中等部一年生・反町一樹と、俺、島野正がこれから一年間を過ごす部屋である。
 そして、そこで俺達を出迎えたのは、その時すでに俺達よりも体格で勝っていた日向小次郎と若島津健だった。
 すべては後の祭りなんだが、この時の俺はまだそんなことを知るはずもなかった。

 

 端正な顔ではあると思う。黙ってそこに座っていれば、見ていて嬉しいほどの女顔の男は、しかしそんな凝視など黙って許している男ではなかった。
「俺の顔に何かついているか?」
「いや何も……それより日向は?」
 射抜かれるような視線に慌てて話をそらす。実のところ、夕食後も一向に部屋に戻ってこない日向のことが気になっていた。談話室でも見かけなかったし、一体どこに行ったんだろう。しかし若島津は平然としたものだ。
「日向さんなら消灯前には帰ってくるだろう。ボールを蹴りに行っているだけだから」
入学式前から練習熱心なことだ。そういえば、春休み早々から中等部の練習に特別参加してるって言ってたな。呆れる一方で納得もする。それくらいでなきゃ、特待生になんかなれやしないだろう。
 この男、若島津健と日向小次郎は入学式前にもかかわらず、なかなかの有名人だった。昨年の全国少年サッカー大会での炎天下の熱戦を見ていた人間は多く(なんとテレビ中継があったのだ)、本人は相手を知らないのに相手は知っているという存在だったのだ。
 しかし試合の時の印象とはだいぶ違う。特に若島津なんか別人みたいだ。
 実は俺はふらの対明和戦の、あの若島津のとんでもない登場シーンを直に見ていたんだ。あの時は遠目だったが、それでも異様とも思える独特な雰囲気はわかった。しかもかなりこぎたない格好だった。
 だから今、目の前に礼儀正しく正座して宿題をしているこいつの端正な顔立ちには、少なからずショックを覚えた。
「それにしても、おまえの相棒は静かだな」
「ああ、引っ越しのドタバタで疲れてんだろう」
 理由を知っていながら、とぼける。
 口から生まれたのではないかと言われている反町なのに、なんと初めの挨拶以来、日向と若島津の2人とはほとんど口を聞いていないのだ。まるで無視するような態度さえ取っている。
 今も、話している俺達のことなんか知らないとばかりに入学式当日に提出する課題を黙々とやっている。
 もちろん反町がこんな態度を取るには理由がある。
 反町と俺は東邦学園初等部のサッカー部で、フォワードとミッドフィルダーのレギュラーとして共に戦っていた。東邦は都でもベスト4に入る常連校だが、去年の夏の大会では予選であの三杉淳率いる武蔵FCに破れてしまい、全国大会出場はならなかった。
 気落ちした反町は、行く予定ではなかったパリへの家族旅行に行ってしまい(余談だが、いくら父親の仕事絡みとはいえ、パリなんて小学生のガキが行くところじゃないよな)全国大会は一切見ていなかった。
 俺も見る気はなかったんだが、大会開幕以来噂の的になっていた大空翼のいる南葛と武蔵との試合くらいは生で見てみようと、よみうりランドへ行ったんだ。
 明和の日向の評判も知ってはいたが、東邦サッカーとは相容れないものを感じていたから、あまり興味はなかった。
 しかし南葛対武蔵戦を待つ間に見たふらの対明和戦は俺の度肝をぬいた。テレビではただ乱暴なばかりに見えた日向のサッカーが、ちょっと違うのだと気付いてしまったのだ。そして若島津登場からの逆転劇。あれほどの高揚感を覚えたのは初めてだった。
 当然、翌日の決勝戦も見に行った。そこには偶然、同じサッカー部の小池と松木も来ていて三人で観戦することになったのだが、この試合がまたすごかった。
 ただ立って見ているだけでも頭がフラフラしてしまうほどの暑さなのに、それをものともせず、ただ勝利を目指して走る日向の姿に俺は感動してしまった。今までの自分達のサッカーにはないハングリーさを突きつけられてしまったんだ。
 俺達は興奮状態で帰り、それは一日で終らず、パリから帰ってきた反町に口々にそのすごさを語って聞かせることになった。
 が、それが反町の機嫌を損ねた。今まで見たこともないとんでもないストライカーだとか、あんなシュートは誰にも打てっこないだとかの誉め言葉にカチンときたらしい。しかもサッカー部以外の人間も結構多く見ていたもんだから、サッカーもろくに出来ない素人にまで言われ、プライドが傷ついたようだ。
 実際に見た者じゃないと、あのすごさは伝わらないんだろうか。俺は親友の気持ちを理解しつつも、同じ高揚感を味わえなかったことを残念に思ったものだ。
 しかし、それも夏休み明けの短期間だけのことで、時間が経つと共に日向達のことが話題に上る事はほとんどなくなっていった。
 が、三学期になり、中等部に特待生として日向小次郎が入学してくるという話が流れた途端、俺達はあの夏の興奮を思い出してしまった。
 反町は当然、あの時以上の反感を示した。なんせ、こいつはフォワードなのだ。たった二つしかないポジションを日向と争わなければならない。中盤の俺としては頼りになるフォワードの存在はありがたいが、反町の気持ちを考えれば下手に喜ぶわけにもいかなかった。
 そういうわけで反町は、日向小次郎と、彼のチームメイトだった若島津健に一方的な反感を持っているんだ。
「国語は終ったか?」
 ずっと黙ってノートに向っていた若島津が俺をうかがう。
「ああ、あとちょっと。こっちの社会の方はいいけど」
 シャーペンを走らせながら言葉を返す。互いの宿題を交換して見せあっているんだ。会った初日とはいえ、そこらへんのところは互いにしっかりしている。
 俺が見ている国語のノートは反町のものだ。反発しながらも、貸さなければ理科を見せないと言われれば、あいつも供出せざるをえなかった。
「いや、社会は終ってるんだ」
「じゃあ、あとは作文と理科だけか」
「そっちも終ってる」
 若島津の言葉に、俺達に背を向けている反町の肩が少し反応した。どうやら耳だけはこちらに向いているようだ。
「早いな。大抵はこれから追いこみだぜ」
 俺の感心した声にも若島津は表情を変えず、算数のノートを見返している。
「早く終らせるにこしたことはないだろ。それに日向さんの方で煩わされるんだし」
「へえー、あいつ、おまえに頼ってるんだ」
「いや、なるだけ自力でさせるようにしているから、進みが遅くてな」
「いちいち教えてんのかよ?」
「俺にもいい復習になるし、日向さんもかなり飲こみが早くなったから、無駄じゃないよ」
 日向のことを話す若島津の声がなんとなく弾んでいるように聞こえるのは、気のせいだろうか。なんか違和感がある。俺はちょっと考えて、違和感の原因に気付いた。
「おまえさ、日向のことをなんで“さん”づけしてるんだ? 普通、呼び捨てかあだ名だろう。それとも、さんをつけないと怒られるのか?」
 若島津はちょっと驚いたように俺を見て、小さく笑った。初めて見る若島津の笑顔だ。
「俺がそう呼びたいだけなんだ」
 そういう声はまたもや感じが違う。なんだかわからないが、少なくとも強制させられてはいないことを確信した。
 しかし日向と若島津ってのは一体どういう関係なんだろう。興味がわいてくる。
「おい、俺は明日にそなえて寝るからな」
 不意にかかった声の主は反町だ。相変わらず不機嫌な顔でパジャマに着替えている。
「そうだな。俺もそろそろ寝ようかな。明日はサッカー部の顔出し初日だし。おまえは?」
「いや、まだ」
「じゃあ、おやすみ」
 俺は反町の上のベッドに上がってカーテンを閉めた。
 目を閉じてから、どれくらいしただろう。低く押さえた話し声がしてきた。
「2人とも寝るのが早いな」
「あんたの方が遅いんです」
「仕方ねえだろ。先輩らがいると満足にボールを蹴れねえんだから。それよりな、おまえ…」
「なんです?」
「ん…いや、いい」
「変な人ですねえ。あ、そうだ、明日の朝はどうします?」
「ああ、いつも通りやろうぜ。身体がにぶっていけねえ」
「わかりました。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 電気が消え、向かいの二段ベッドでゴソゴソと音がする。それもやがて止み、静けさが戻ってきた。
 そして俺はすーっと深い眠りへと落ちていった。

 

 ……一体何時だ? 朝っぱらからゴソゴソするなよなあ。
 誰だよっ!
 せっかくいい気分で眠っていたのに、目が覚めちまったじゃないか。
「日向さん、おはようございます」
 若島津だ。眠気も感じさせないさっぱりした声をしてる。
「おはよう。もう時間か」
「先に行って外で待ってます」
「おう、俺もすぐ行く」
 中一とは思えないような日向の低い声とともに、ベッドから降りる気配がした。着替えている音がし、すぐに部屋から出ていってしまった。
 一体、今何時なんだ? 目覚まし時計を見て、俺はあきれる。
午前六時。
(ウソだろー。なんて元気な奴ら)
 俺は再び眠るべく瞼を閉じた。
(……でも、あの2人の会話って…なんだか変だよなあ)

 

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