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00/8/15 太鼓踊り |
毎年8月15日のお盆に大浦町では、太鼓踊りが行われます。地元では「盆踊(ぼんのおどり)」とも呼ばれている郷土芸能です。 以前は旧暦の7月16日にあったそうで、大正期に8月16日となり、戦後現在の日になったそうです。 踊りの起源・起因はよく分かっていないのですが、日新公(じっしんこう 島津忠良 1492〜1568)が大浦へ遊行した際に供覧に添えたとか、日新公自身が振り付けされたとか云われています。またそれ以前からあったともされています。 昭和初期までは11地区による奉納があったらしいのですが、太平洋戦争の頃はわずか1地区まで減少し、戦後は2・3の地区で継続され、その後徐々に復活し、現在有木(ありのき)・上ノ門(うえのかど)・大木場(おおこば)・柴内(しばうち)・永田(ながた)・平原(ひらばる)・福元(ふくもと)の地区が奉納しています。 今回、私の地区の柴内を中心に紹介します。 |
まず、一ヶ月程前から踊りの衣装作りをします。 左写真は小太鼓の人が被る「花笠」を作っています。右写真は大太鼓の人が背負う飾りを作っています。 出来上がりはこのような感じになります。 衣装は大まかに二種類に別れ、写真は大太鼓と小太鼓の衣装です。その他にカネ、歌い手がいます。 大太鼓の背中の飾りは山鳥、薩摩鳥、孔雀の各羽と竹と小麦のワラで出来ています。 このような格好から太鼓踊りは念仏踊りの一種ではないかとも言われています。 |
それと並行するように踊りの練習もします。この練習の時の鐘の音が、お盆が近づいている事を知らせます。 毎日、指導者がついて夜遅くまで練習します。 |
そしていよいよ本番当日。朝、永田地区にある日新祠堂(にっしんしどう)へ歩いて向かいます。 これから長い一日が始まろうとしています。 今年は2番目に踊るので6時に出発(泣)。 |
これが日新祠堂です。(左の写真) 日新公が大浦に来た際、泊まった吉見家(右の写真)にあります。 |
日新祠堂に着いたら近くの民家で着替えます。毎年各地区のお世話になる民家は決まっています。 準備が整ったら入り口にて待ちます。 |
さあ、自分達の出番がきました。吉見家の門から踊り始めます。 昔は先頭を踊る事が名誉だったと聞きます。 |
踊りながら「かごめかごめ」のように円をつくり、中に小太鼓(2人)・カネ(2人)・唄い手(3人)がそれぞれ太鼓や鐘を鳴らし、唄を唄い、外側に大太鼓(16人前後)が踊りながら鐘に合わせて太鼓を打ちます。 太鼓踊りと言いながら、実際は殆ど叩かず、主に踊りが中心になります。これは古式をよく伝え、非常に珍しいそうです。 各地区によって踊り方や唄が違い、一地区約10種類の踊りを30分位それぞれ踊ります。 |
円の中心に作る盛り土です。何故このようなものが作られるのか分かりません。勉強不足です。 |
そこが済むと次は西福寺(さいふくじ)で行います。 こちらはお昼に行われますので、お客さんも沢山入ります。 |
お寺でも同じ様に踊ります。この頃になると大変暑く、踊りの合間に周りの人が、内輪で踊り手を仰いでくれます。その気使いが嬉しいですね。 太鼓踊りは全員男性で行われるのが慣わしだったのですが、近年人口の減少で小太鼓は女の子がやっているところもあります。 平原地区の踊りは、隣町の加世田市小湊にそっくり伝えられているそうです。 大木場の唄は、700年余続いてきたといわれ、平家の名残をしのばせるものがあります。 |
退場の仕方は小太鼓・カネ・唄い手が二列に並び、その中を大太鼓が踊りながら出て行きます。 |
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踊りが終わると、皆どっと疲れが出ます。本当に暑い暑い。後は地元の公民館で踊るだけです。力水を飲んで精をつけます。 |
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最後の場所、柴内公民館です。 柴内の踊りは、他の地区の踊りにない「カマクラ」と言う踊りがあります。 これは踊りのクライマックスに大太鼓の輪が乱れ、暴れ飛び交います。(写真でその迫力を伝えられないのが残念。) この「カマクラ」は、武将新田義貞(1301〜1338)が稲村ヶ崎で、荒れ狂う海に剣を投じ、神の心を鎮め、波が静まるや一気に鎌倉めがけて突進したのを踊りにしたと言われています。 |
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長かった一日も無事終わりました。疲れました。しかしこの後打ち上げが行われます。うまい酒が飲める事でしょう!皆さんお疲れ様でした。 参考文献 大浦町郷土誌(大浦町郷土誌編纂委員会) 村田煕「太鼓踊り(川辺郡大浦町永田集落)」「鹿児島県文化財調査報告書」第9号、昭和37年 下野敏見「南九州の民俗芸能」昭和55年、未来社、71〜72項 |
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