*1/4〜1/3 くらいのところから、演劇のあらすじ始まってます。(えいこ) 以下引用 =================================   じわっと関西風味 ロシア演劇批評     <  ロシア・天井桟敷  >       演劇の都・モスクワより CHOCO ================================= 1.ついに出た!オスカー・ワイルド「幸福な王子」の   モスクワ代表演出家・ゼッケン一番>>>    <<<ギンクス版??? そういえば、昔こんなCMの歌があったっけ? 「しあわせーって、なんだっけなんだっけ、ポン酢醤油のある家さ」 日本の幸せって、なんかこの歌を思い出すと、 どうも悲しいかな、小市民的なものを感じる。 もちろん、これはあくまでバカバカしい例。 でも、それはそれで一つの平凡そうに見えて、有り難い幸せの形 なのかもしれない。 だって、ロシアにそういう感じの幸せって、 どうもなさそうなのだ、彼らの世界では気性の激しさゆえ、 天地の差くらい幸せにも幅がありそうなのだ。 そして、大体不幸のネタにはつきない。 冬が寒いからか、社会情勢が安定しないからか、 美人が多くて選り取り緑だからか、その理由は知らない。 ただ、こちらの小市民は心はいいが金はない。 それも、かなり経済的に苦しい。 普通の人でそれだから、一般以下になるともっと厳しい。 そんな厳しい世界の芸術家は、もちろんかなりシビアだ。 実際に、ソ連というもっとひどい時代を行き抜いてきた世代は さらに世界観からして、違うのだ。 そして、この今回の演出家カーマ・ギンクス。 ロシア広しといえども、こういう過激さを探すのは きわめて難しいというくらい、彼は世の中を鋭く見ている。 鷲のような目をして。 「幸せな王子」という物語ですら、彼の手にかかるとここまで、 渋い話になってしまうのだ。 自分自身を与えて、相手を救おうとする心境は、 どこか仏教的ともいえる。 「ヤワなしあわせ」なんて思い描いてた日には、 ぶっとばされそうだし、まず生き残れない。 でも、そんな現実というものの過酷さ、残酷さの中でも、 愛を信じようとする、強い情熱。 「こういうもんを見られるモスクワの あんたら子供は、ほんまに幸せやで」と羨ましいくらいだった。 モスクワの心臓・赤の広場から走り出す一本の太い血管。 夜のトベルスカヤ通り、ギラギラしたネオン、怪しい都会のど真ん中。 まさに夜も眠らない。不夜城? 平和な昼間の並木道とは打って変わって、 いかにも歓楽街という雰囲気に満ち満ちている。。 ロシア人の喜怒哀楽、ウオッカにビール、アルメニアブランデー、 もうなんでもかんでも入り混じった混沌の世界。 しかし、そんな大通りをちょっと入れば、この劇場。 (ロシア人は”ムチューズ”と四文字の略称で呼ぶ) 子供向けの劇場とは思えない芝居を、夜はやっている。 今回は夜だったのに、大半は小学生低学年のお客様。 「あのー君ら、ほんまに大丈夫かいな??」 とお尋ねしたくなるような、気持ちも最初はあった。 しかし、見終わって分かった。 子供だからといって、妥協しない。 彼らの審美眼の前で、ひるまずに本物をやれるのが、 ほんまもんの芸術家っちゅうもんよ。というギンクスの気持ち。 前置きが、また長くなった。 とにかく、興奮が数週間してもまだ冷めやらないのだ。 まず、なにを隠そう舞台の上の得体の知れない物体を見た、 その瞬間、「やられたー!」というムシズのようなものが、 ビビーと神経を走っていくのを感じた。 そう、今までこんなの見たことないような 巨大な黒いダルマ型の檻のようなものが、 岡本太郎の”太陽の塔”よろしく、舞台中央に君臨している。 金色の仮面を冠ってこっちを睨んでいるのか、 笑っているのか、とにかくそこにいた。 これがまさに「幸せな王子の銅像」なのだ。 その横には、これまた謎の金属的な 折れ曲がった柱のようなものが、 隅っこの方に、ちぢこまるように立っている。 でも、よく見ると”ダチョウの足”みたいな形をしている。 どうしてこんなところにあるのか? とにかく、人によっては完全に物事に説明をつけないと、 納得がいかないという性格の人もあるが、 この劇場でそれをやると”確実に発狂する”だろうと、私は思う。 ロシアみたいな大きな国では、説明できないことが多々あるし、 みんなそれを、当たり前のように受けとめて生きている。 芝居でもそういう感じがする。 もちろん、ただ気狂いじみた輩の作品は相手にされないにしても、 いかにも普通の人に受けないような難解なものが、 けっこう一般的にも評価されていたりするのが、面白い。 やはり、それだけ目が肥えているといえるのか。 それとも、単なる新しいもの好きか? とにかく、ロシア人の噂は早いのだ。 あっという間に面白い出し物には人が集まる。 この演出家ギンクスも、表現的には異端中の異端でありながら、 その才能が認められ、今やロシアの偉大な演劇人と呼んで 差し支えないくらい、多くの人の支持を集めている。 しかし、彼には長年大きなハンディがあった。 「ユダヤ人」なのである。 しかも、ラトビア出身の。 幼年から過酷な収容所生活を経験し、 生き残ってきた運も体力も強い男なのだが、 それから先にも、なみなみならぬ苦難の時代があった。 そんなソ連時代の抑圧下においては、 妻で演出家のヤノフスカヤが、内職をしながら家計を助けたという。 まったく不遇な日々にも、許された数少ない芝居の演出を、 黙々としながら、地道に彼独特の創造の世界を展開していった。 そんな口下手ギンクスが「妻へ捧げる」というこの芝居。 そう生半可な愛であっていいはずがない。 彼の人生そのもののような、厳しい現実との直面が投影され、 「ぱっと見て、はっと泣いて、わーっと感動する」だけの芝居、 それはそれでいいんだけど、(そういうのも実際多い) 彼は、それでは納得いかない人間なのだ。 舞台が始まると、いきなり奇怪な現象が起こる。 黒い帽子にコートの男女が、手に手を取って一組づつ、 順番に現れるのだが、彼らの語る言葉。 これが、普通の言葉ではないのだ。 <<ルルル、ラララ、バババ・・・ブンブンブン???>> そんな風に歌っているのか、ハミングしているのか いや、時折虫の羽音のようにも聞こえる音で、 不思議な会話をしながら、 彼らは、ドタドタと少し下品な感じに歩く。 そして、白い壁を前に浮かび上がるような黒いシルエットを やや不気味に揺らめかせて、どこかに去っていく。 そのなんとなく機嫌の悪い蝿みたいな集団。 だが、おそらくこれが愛すべき一般大衆の一面であろう。 彼らは悪気なく、平凡な生活の中で違う言葉を話しながら、 王子のすぐそばを、まったくその存在にすら気付かずに 通りすぎていってしまう。 まったく、悪気はない。 子供みたいに素直なのだ。無邪気ともいえる。 ただ、無神経なくらいじゃなければ、生きられない、 そういう現実が、彼らの前にはある。 だからこそ、あんな風に少し品なく、 バタバタと動き回るのである。 ところが、そんな中に一羽の美しいツバメがいた。 美しいだけでなく、王子の気持ちを分かってくれる 唯一の存在、ラーストチュカ。 まさに、見た目は金髪の燕尾服の美女。 また、それに対する王子役。 実は同じ燕尾服にショートの金髪美人、これもまた女性なのだ。 ここまで来ると、関西人なら「宝塚」を思い出すはず。 やはり、私は「おおっ、宝塚か?」と身を乗り出した。 関西人、思うに「この喋り方のトーンも宝塚的とちゃうん?」 なんだか、似てるで。発声まで。 しかし、宝塚より大胆で色っぽく見えるのは、 単なる燕尾服でないこの衣装、下のヒラヒラのブラウスが ノースリーブで背中がきれいに開いている上、 どうも股座にベルトみたいなのをしてるなあ、と思っていたら、 これ、なんと宙吊り用なのであった。 当然のことだが、ツバメさんは空を飛ぶものであった。 そう、はじめて来た街を喜んで飛びまわっていたら、 無邪気なツバメ、すっかり迷子になってしまう。 人に道を聞いても、不親切。 どこに泊まればいいかも分からなく、うろうろしていて、 見つけたのが、この王子の銅像だった。 ちょうどいいから、ここで一泊させてもらおうということに。 まさにそれが、二人は出会いであった。 実は王子、この銅像の中に幽閉されているのである。 したがって、二人の会話は金網を隔てて、ちょうど 牢屋に面会に来た人と話しているような、 ちょっと独特の関係になる。 王子は昔の自分の栄光の時代を、ツバメに話して聞かせる。 そこで、にわかに8人のまったく同じ衣装を着た女性ダンサーが 現れ、王子は檻から開放される。 BGMにはアルゼンチン・タンゴの バンドネオンで有名な、ピアソラの激しい情熱の音楽が流れ、 舞踏会を再現するかのように、キビキビと踊り始める。 王子の熱の入った弁舌は、最初は誇り高く、 上流社会の豪華絢爛たる様子を語り上げるのだが、それが だんだんんと絶望的なトーンになるにつれて、やや暴力的に ダンサー一人づつ、それぞれの方向に手をねじ上げるようにして、 追い払ってしまう。 そして、王子一人になったとき、 どこからともなく、黒い衣装の人々が現れ 王子を無理やり捕まえて、 また檻の中に連れ戻してしまうのだ。 いまや、王子は社会と断絶された孤独な世界にいる。 ここから見えるものは限られている。 だが、そんな中でも、王子の心を捉えて離さないものがあった。 ある人家の小窓から見えた、貧しい母子。 彼らは、明日の食料にも事欠いて、大変苦しい思いをしている。 王子はそれを黙って見ている自分の無力が、あまりにもつらい。 そこで、ツバメに言うのだ。 「私の銅像の足にルビーが付いている。 貧しいあの親子に、持っていってあげてくれないか?」と。 ツバメはその望みを叶えてやる。 ちょっと滑稽な感じの親子、というのも赤ん坊役がわざと 大きな顔の男が、白い前掛けにひらひらの付いた頭巾をして、 「アババ・・・」と言っているから、どうもお笑い系だ。 彼らは大喜びする。 でも、その様子はどこか厚かましくもある。 王子の銅像の足にあたる、端っこに立っている柱から、 無理やりルビーをひっぱがして、持っていってしまう。 だが、ツバメの報告で、彼らの様子を聞いた王子は大変喜ぶ。 しかし、実は季節はもう秋。 ツバメは仲間たちと一緒に、暖かい地方に飛んでいく途中なのだ。 王子と別れるのはつらいけど、明日こそは出発しなければ。 そうやって、毎日のように決心を固めながら、ツバメは なかなか飛び去ることができない。 なぜなら、王子に「もうちょっとでいいから一緒にいて」と 望まれると、ツバメはそれを拒否できない。 実際ツバメにも、王子から離れたくない気持ちがあるのだ。 それに、王子に悲しそうな顔をされては、 こっちまで悲しくなってしまう。 まさに、恋愛初期現象とでもいうのだろうか。 この二人の依存関係はだんだんと深まり、 切っても切れないものになっていく。 この「王子の貧民救済願望」は果てしなく続いていく。 最初はまだよかったが、そのうちにはまさに身を切るような 痛みを伴って、その過程は進行していくのだ。 ついには、両方の目にはめ込まれたサファイヤまでも、 貧しい人のために与えるようにと、王子は頼む。 ツバメは叫ぶように言う。 「それだけはできません。そんなことをしたら、 あなたは盲目になってしまうじゃないですか?」 それでも王子の必死の望みに、ツバメは拒否することができず、 片方づつ、それぞれ貧しい人のところに泣く泣く運んでいく。 その辺りの二人の会話口調は、なんとも哀切極まりなく、 激しく、感情的にぶつかりあい、火花を散らすようであり、 それでいて、女性独特の子供に語るように柔らかい、 きれいな言葉使いをしているのだった。 「愛は惜しみなく奪う」とはまさにこのことじゃないかと、 私はそのとき、忘れかけていた有島の この小説の題名を思い出していた。 まさに、このままいけば「死」を意味するとお互い分かっていて、 愛する相手の望まれれば、放って行くことは不可能なのだ。 命を削り、時間を奪い、精神を消耗させ、自由を束縛し、 一体、愛っていうのはなんて残酷なものなのだろう。 甘っちょろい流行歌の中の「愛」にこういう側面は多分ない。 こんな、負の側面を知った日には、要領のいい人たちにすれば、 なんのメリットもないのが愛だったら、偽であれ、まやかしであれ、 もっと”傷つかない愛”を選ぼうとするかもしれない。 でも、真実の愛はそこにはないのだ。 やがて季節も冬に近づいてきて、すっかり寒くなってくる。 しかし、ツバメはもう盲目になってしまった王子を置いて、 飛び去ることができない。 肉体的な力も残り少ないのを、ひしひしと感じているし、 なによりも、この愛する王子を捨てるということが、 できなくなってしまったのだ。 最後の最後になって、ツバメは言う。 「最後に、私からあなたにお願いがあります。 あなたの手に接吻しても、よろしいですか?」 王子は静かにそれに答えて言う。 「僕も君のことを愛しているから、手でなくて、頬にキスしなさい」 しかし、もうそのときには遅かった。 ツバメは最後の力が尽きて、地面に向かって体ごと落下していく。 最後の言葉によって、ツバメの愛は報われたのかもしれない。 それでも、残された王子の嘆きは大きかった。 銅像の内側から、その嘆きとも怒りともつかない振動が 地響きをたてるように、街へと伝わっていった。 王子の魂もそれによって、死んでしまったかのように。 その後街の役人集団が、もはや装飾の価値もなくなってしまった 王子の銅像を撤去するために、銅像の前にやってくる。 「さて、次はなんの銅像立てまっか?」ってなわけだ。 彼らの厚顔無恥な行動といい、発言といい、 腹が立つ前に、驚くほどの無神経である。 彼らは、ひとしきり言い争うが、結局、 その場の中で、一番権力のあった町長の銅像を立てることで収まる。 そして、問題はその後だ。 あの例の黒服集団が現れたかと思うと、「うわーっ!」と 歓声とも罵声ともつかぬ叫びをあげて、銅像の上に 次々とよじ登って、最後のひとつのかけらまで、 残っていたものを持ち去っていってしまうのだった。 その蟻の集団のように、無意識的に発生したような危険な塊、 これこそ、私のイメージでは社会主義時代の群集心理を 象徴しているようにと思えた。 無知で無垢がゆえ、いとも簡単に洗脳されてしまう大衆。 いや主義に関係なく、”烏合の衆”というのはこんな現象を言うのか? そして、王子とツバメの死体は前方に転がされる。 それを誰も見向きもしない。 いや、それどころか 「さっさと、こんなん片付けてまえ」とでもいった様子だ。 竹箒を持った男が、面倒くさそうに掃いて周りながら、 うさん臭そうに眺めている。 なにもなくなってしまった、あの銅像の上に 一人のハナサカ爺のような男がよじ登り、雪をばら撒く。 まったく、感情抜きに。 それが仕事だから、ただ仕方なくしているという感じで。 やるせないピアソラの旋律が、積もる雪と共に悲しみを深める。 最後になって、またあの意味不明の歌とも会話ともつかない 擬音語を発する連中が、二人づつそぞろに歩きながら現れる。 でも、なんだかその音が最初より悲しそうだ。 慰め合うように肩を合わせながら、彼らは通り過ぎていく。 そして、その後に彼らは再び集まって、 王子とツバメに駆け寄っていって、 天井から下りてきた、ピアノ線に彼らを結び付け、 王子とツバメは、空高く舞い上がっていく。 どこまでも彼らは舞い上がりながら、 二人は、もう決してその手を離すことはない。 天上の世界にて、彼らはやっと一緒になれたのだろう。 そうして「幸せな王子」は完結した。 どれくらい上手く、自分の感動を伝えられたか分からない。 しかし、子供向けにしてはかなりシュールで、 手加減しない内容であったことは、 多少なりとも伝えられたのではないかと思う。 こんな典型的な童話が、演出家の視点を通すことによって、 ここまで深い内容になるのが、私には衝撃的だった。 そして、単なる教訓めいた話にしてしまわずに、 子供に、なにか少しでも真実に近い、嘘のない世界を、 演出家自身が体験してきた厳しい人生を、 勇気を出して語ろうとするそういう姿勢に、 本物の芸術家としての、”気概”を見たようだった。 日本では、なにか子供というと、どうしても、 「大人より物事が分かっていないし、分かっちゃいけない」 空気があるように思える。 もちろん、ロシアだって同じような風潮もある。 だが、少なくとも芝居をやる人に関しては、 比較的、子供に対しての真摯な姿勢があり、 彼らを一個の人格として、尊重する態度が見られる。 そういう対等な関係、媚びるわけでもないし、甘やかすわけでもない、 お互い認め合う関係が、まさに理想的に私には思えた。 実際、子供だからこそ素直に、歪んだ矯正された視点でなく、 世の中を見られる面もあるのだから、 むしろ大人であっても、感性が豊かな人ほど、 彼らから学ぶところは多いであろう。 (たとえば、ピカソのような人でも、 子供の描く絵と、その素晴らしい視点を評価していたように) しかし、子供の頃から、このような芝居を当たり前のように、 見ることができる環境は、実に素晴らしい。 おそらく、情緒・想像力を育て、机上の学問では決して 得ることのできない体験として、蓄積されていくのだろう。 その影響が、すぐには現れなくても、長い時間の熟成を経て、 やがて、彼らの精神世界に対して、 なにか大きな閃きを与えるやもしれぬ。 こういう精神面の教育こそ、 本当の人格育成に必要なものではないか? 今の日本にはこういう劇場や環境、そういうものに出会う機会が、 絶対的に不足している気がする。 やはり、子供の頃から、本物を見て育つことは大事である。 国家の計も百年先を見るとしたら、採算なんか度返しして、 ロシアでこういう芝居をしている劇団というのは、 凄い時代を越えて、世代に文化を継承していく役割を 持っているといえるだろう。 どんなに世間が混乱していても、信じるもの・演劇があり、 そして、愛する人々・家族・観客たちがいる。 そんなギンクスが、とてもとても羨ましくあり、 ぜひそんな風に生きたいものだと、噛み締めるように思うのであった。 ============================ このメールマガジンはメルマから発行しています。 解除・変更・申し込み・バックナンバーは以下でお願いします。 http://melma.com/mag/24/m00010124 感想・意見・質問など御気軽にどうぞ。 chiyoko@orc.ru ===========================================================