御聖教の御文(42)
内に虚仮を懐く
 外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐けばなり。
 貪瞋(とんじん)・邪偽(じゃぎ)・奸詐百端にして悪性侵(や)めがたし、
 こと蛇蠍(じゃかつ)に同じ。
【『愚禿鈔』下64・注釈版聖典517頁】

 親鸞さまは『愚禿鈔』という上・下巻の書を残されました。
 上巻には独特の教判として「二双四重」の教判、下巻には善導大師の「三心釈」について、覚え書きを記しておられます。
 仏経の全体を分類整理した教判として、大乗・小乗、頓教・漸教、難行・易行、聖道・浄土、権教・実教などの従来の諸説を紹介したうえで、親鸞さまは独特の二双四重の教判を創設されました。
 それは竪横・超出を組み合わせたものです。
(1)竪超(しゅちょう)=自力の頓教、聖道難行、即心成仏。
(2)竪出(しゅしゅつ)=自力の漸教、聖道難行、厭離求道。
(3)横超(おうちょう)=他力の頓教、浄土易行、即得往生。
(4)横出(おうしゅつ)=他力中の自力、浄土易行、化土往生。
 浄土真宗が(3)横超、他力の頓教で浄土門易行道として、信の一念に即得往生することを鮮明にされました。

◆悪性やめがたし
 本章の法語は、『愚禿鈔』下巻の「賢者の心を聞きて愚禿が心を顕わす」と記された文章の一部です。
 原文は「観経疏」の一節で、一般に「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」と読まれて「外見に賢善の相をあらわして、内に虚仮を懐くことが出来ない」と解釈されていました。
 それを親鸞さまは「内に虚仮を懐いているのだから、外に賢善精進の相(すがた)現すことはできない。」と、全く逆の意味に解説して、内心の浅ましい姿をさらけ出されました。
 内心に貪瞋(とんじん)(貪欲・瞋恚)、邪偽(よこしま、いつわり)、奸詐(いつわり、悪だくみ)などの悪性が百端(ももはし)(万端・さまざま)にて止めがたく、まるで蛇や蠍を飼っているのと同じであり、このような浅ましい凡夫にどうして賢善精進の外相を保つことが出来ようか、と嘆かれています。
 同じお聖教を読んでも自分は善人と思っている人と、自分を悪人と思っている人とでは読み方が違います。
 親鸞さまはご自身を教祖とも思わず、善人とも認めず、常に仏弟子であり、法然聖人を教祖と仰ぎ、自分は地獄一定の凡夫であると自覚されていました。
 このような内心虚仮を懐いた自分が、師匠のふりをしたり、高徳の僧の姿はできないといわれ、自ら愚禿と名乗られました。
 愚は賢や智の反対、禿は剃髪、結髪のない姿を示す言葉であり、「無智で愚かな破戒僧の親鸞」という意味です。
 お人柄が偲ばれます。
【親鸞さまの法語掲示板 杉本 顯俊 師 探求社刊】