夏日

 

 日が落ちても、真夏の太陽が残した熱は簡単には消えてくれない。
 通りに沿った家のあちらこちらで、クーラーのモーター音が聞こえてくる。
 羨ましいなと思いつつ、そんなものに頼っていたら体がなまっちまうぞ!と、日向は思う。
 クーラーがない者の負け惜しみでもいい。なくても、ちゃんと生きていられるんだから。
 日向はそんなことを思いながら家路についていた。夕刊の配達の帰りである。
 父親が亡くなり借金を抱えたままの日向家では、クーラーどころではなかった。狭い部屋に家族五人で並んで寝て、冷房器具は扇風機だけという生活だ。だが、扇風機を回せるだけ幸せなんだと日向は思う。
 しかし、やっぱり……クーラーの音は癪に触る。日向は走る足を速めた。さっさと帰って水風呂でもいいから入ってしまおう。
 が、前方から走ってきた奴に、その足を止められる。
「わっ」
「あっ」
 危うくぶつかりかけるほど勢いよく走ってきたのは、同じサッカーFCに所属している若島津だった。普段から愛想が良くないが、今日は一段と機嫌が良くないようだ。
「なんだよ、こんな時間に」
「別に。あんたは新聞配達帰り?」
「おお。あ……もしかして、またオヤジさんと?」
 図星だったのか、若島津はキッと睨みつけてきた。
 出会った頃は、若島津のこんな顔を見ると可愛くねー奴と思ったものだが、最近は見慣れてきたせいか、なんとも思わなくなった。いやむしろ、長男の気質が発揮されるのか、妙にかまいたくなる。
「で、これから家出か?」
「ちょっと頭を冷やしにきただけだ」
「ふうん」
 日向は少し考えて、足もとのボールをひょいと上に蹴り上げた。
「家に来いよ」
「え?」
「今日は俺一人なんだ。飯に付き合え」
「おばさん達は?」
「お袋の会社の近くで夏祭りがあるんだ。かなり大きな祭りだって話したら、直子が見たいって言い出してよ。帰りは10時頃になるんじゃねえかな」
「日向は留守番?」
「夕刊を配らねえといけないからな。とにかく帰るぞ」
「ったく。わかったよ。夕飯につきあってやるよ」
 ちゃんとしたものを食わせろよとかなんとかブツブツ言いながらも、若島津の表情から刺々しさは消えていた。





 若島津は明和FCの頼りになるキーパーで、日向とタメを張れる数少ない奴だ。と同時に、若堂流空手の総帥である父親の下で幼少の頃から空手をやっていて、ずば抜けた才能を見せていた。
 おかげで、若島津がサッカーを始めてからというもの、サッカーよりも空手を重視する父親と、どちらも頑張るという息子はことあるごとに対立し、喧嘩しては家を飛び出すということをよく繰り返していた。
 だが、この夏では初めてではないだろうか。この、暑くて熱かった夏では。
 次の練習試合と空手の試合が重なったのだろうか。
 それとももしかしたら、サッカーを辞めて空手一本に絞れという話があったのかもしれない。
 日向達明和FCは夏の全国大会を準優勝で終わったのだが、「これで健も満足しただろう」と父親が言っていたのを、近くで応援していた屋台のオヤジさん達が聞いていて、日向に教えてくれたのだ。
 傍から見れば、準優勝というのは満足な結果かもしれない。しかし、本気で優勝を狙っていた日向も若島津も他のメンバーも、誰一人として満足なんてしていなかった。あれほど悔しい思いをした試合を最後に、サッカーを辞められるはずがないと思う。
 実際、あの試合を戦ったからこそ、日向はスカウトに応じたのだ。
 まだ正式に決まっていなかったが、日向は小学校を卒業したら、東京の私立の学校・東邦学園に行くことになっていた。先日行われた全国小学生大会でスカウトに認められたのだ。スカウトの話では、今後なにごともなくいけば、ほぼ間違いなく特待生になれるということだった。
 一流のサッカー選手になってお金を稼ぐ、それが日向の目標だから、またとない申し出だった。だが、大人に対して強い不信感を抱く日向は、評価された事を素直に喜べなかった。何か裏があるのではないかとスカウトのことを疑ったりもした。
 しかし、あの準優勝の屈辱を晴らすにはどうすればいいか考えたら、このスカウトを受けるのが一番だとわかったから、日向は決心した。
 若島津はどう思っているのだろうか。
 自分にも負けないほどの負けず嫌いが、あのまま終われるとは思えない。
 多分、父親とケンカをしながらサッカーを続けるだろう。
 しかし、無理矢理誘ってサッカーを始めさせたようなものだから、日向がここからいなくなったら、いつか空手の方に戻ってしまうかもしれない。
 それだけは嫌だと思う。
 出来れば、これからも一緒に戦いたいくらいの奴なのだ。これがどんなに難しくわがままな望みなのかわかっているが、若島津のキーパーとしてのずば抜けた才能、チームに及ぼす影響力を考えれば、これほど力強い味方はいない。
 だが、サッカーの特訓に付き合せるのと同じように、若島津にそれを強要できるはずもないし、するつもりもなかった。
 日向はサッカーに関してはわがままな王様だったが、早くに父親をなくしているせいか、それ以外のことに関しては子供らしくない冷静さを持っていた。
 とてもではないが、「東邦に来い」と無邪気に言えなかった。





 鍵を開けて、ガタつく玄関を開ける。
 弟達の靴が散らかっていないことに内心ホッとしながら、若島津を招き入れた。若島津は「お邪魔します」と一礼をして、日向に続く。
「汚くて悪いな」
「え? 汚いっていうのは片付いていない家だろ? 小さな子供いる家にしては、きれいにしている方だと思うけどな」
「そうか?」
「それで、夕飯は何にするんだ? 日向の分は用意されているんじゃないのか?」
「残念。俺が作るんだよ」
「ええーー」
「なんだよ、その不服そうな声は。食べて驚くなよ」
「胃薬を買いに行こうかな」
「バカを言ってないで手伝え」
 日向は石鹸でゴシゴシと手を洗うと、冷蔵庫から魚を三枚におろしたものを出してきた。若島津には白ゴマを渡す。
「おまえはそれを炒ってくれ」
「いいけど……何を作るんだよ」
「ふふん。うちの定番の丼メニュー」
「丼? それ、何の魚?」
「アジだ。こうやって刺身みたいに薄く切るんだ」
 言っているそばから、きれいに薄く切っている。
「意外に器用なんだな」
「意外ってのはなんだよ」
 日向はボウルに砂糖と醤油、それに若島津が炒った白ゴマを加えて混ぜた。
「この中にアジを入れて30分くらい寝かせるんだ。あとは卵とネギを加えたら出来上がり」
「へー、簡単」
「ああ。簡単だし栄養価もあってうまいんだ。ま、食って驚け」





 アジに味がなじむまでの間、二人は縁側に出た。蚊取り線香の煙が細くたなびく。
 月は雲で隠れているのか、空が暗い。
「暑いだろ、ごめんな」
 部屋の奥から扇風機がブーンと低い唸りを上げて風を送ってくるが、昼の熱気が残っているから、涼しいと感じられるのは一瞬だ。だが、若島津は「そうでもない」と涼しい顔だ。
「親父がクーラー嫌いだから、滅多に入れないんだ。木が多くて風通しがいいのがせめてもの救いかな」
「へー。初耳だ」
「それに冷房は体に悪いっていうし」
「だよなあ」
 クーラーを「買えない」と「付けない」との違いを理解しながらも、仲間を見つけたみたいで日向はなんとなく嬉しい。
「しかし、クーラーのことといいサッカーのことといい、おまえの親父さんってホントに頑固だよな」
「あの頑固さを取ったら、面白みがないってお袋は言うんだけど、子供には迷惑だよ。いい加減、親父も諦めてくれたらいいのに」
 憤懣やるかたないという口調に、思わず日向は小さく笑う。若島津が父親譲りの頑固者だという話を、彼の母親や姉からよく聞いていたのだ。
「・・あっ」
 不意に若島津は短く声をあげると、自分の口を手で覆った。
「どうした?」
「ごめん……日向にしてみれば、俺って贅沢だよな」
 何をどう誤解したのか、若島津は小さく頭を下げた。
「親父とケンカ出来るだけ幸せなのかもしれないのに」
「バカ。んなこと気にすんなよ」
 軽く頭をはたいてやる。
「死んでるから美化しちまいがちだけど、多分生きていたら、くだらねえことでケンカしてたと思うぜ?」
「そうかな」
「ああ。俺は結構たてついたりしてたからな」
「そうなんだ」
「テレビのチャンネル争いも、残ったオカズの取り合いも本気でやったぜ」
「ホントに?」
「おう。なんでも白黒つけたがって、よく怒られたっけ。まだほんのガキの頃なんか、親父相手に負けたのが悔しくて駄々こねて、負けじゃ意味がないって泣きわめいたらしい」
「困ったガキ」
「だよな」
「しかも、いまだにその性格は変わってないじゃん」
「失礼な。俺は駄々はこねないぞ」
「似たようなもんだろ」
「フン」
 日向は膨れてみせたが、怒ってはいない。厚い雲が覆う空を見上げる。
「でも……どんなに怒られても嫌いになれねえもんだよな」
「……うん」
 生きていても死んでしまっても、父親は父親。きっと生涯、父親に頭が上がらないのだろう。
 しかも死んでしまったら、その存在は必要以上に大きくなってしまうのかもしれない。
 でも。こんなシンミリとした気持ちをずっと抱えているのはゴメンだ。
 日向はまるでとても大切な話をするように、声をひそめた。
「親父が死んだせいで、すっごく大事な約束が果たせなくなって、ガッカリしてることがあるんだ。なんだと思う?」
「え? 試合に応援に来てもらうとか?」
「違う違う。そんなちっぽけなことじゃねえ」
 ちっぽけと言われ、若島津はムっとした顔になる。
「なんだって言うんだよ。ワールドカップ優勝?」
「んな、実現するかどうかわからない約束にガッカリしてどうするよ」
「えー。じゃあ、なんだよ」
 頬を膨らませる若島津に、日向は得意げに笑った。
「答えは、俺が大人になったら、一緒にポルノを見に行こうって約束」
「……なにそれ」
「お袋も知らない、俺と親父だけの約束だったんだ。尊や勝と4人で行こうって話もしたっけな」
「サイテ〜〜」
「おまえも親父さんとそれくらいしてみれば?」
「そんなことを言い出したら、それこそ道場で何時間もお説教をくらうよ」
「堅すぎる親父だよな。一度、俺のシュートをぶつけてみようか」
「死んじまうって。ああ、もう!あんたと話していると話がおかしくなる」
「失礼な奴」
 日向は笑いながら時計を見た。ちょうどいい頃合だ。
「おい、飯を食うぞ」




 日向特製の丼は、ひゅうが飯といった。母方の実家の郷土料理で、物心がついた頃から食べていた。
 先ほどのアジに卵と小口切りをしたネギを混ぜて、炊き立てのご飯に乗せ、仕上げに刻み海苔とすりおろした夏みかんの皮をかければ出来上がりだ。これと、野菜を切っただけのサラダという貧相な食卓だが、お腹が空いた二人の少年にはたまらないご馳走だった。
「な、うまいだろ?」
「うん。これ、他の魚でもいけそう」
「イカとかでもいいんだぜ」
「お袋に教えてみるよ」
 ガツガツと食べる若島津の表情は、さっき会った時よりもずっと元気が出ているようで、日向はホッとした。ケンカした後に良く見せる刺々しい表情よりも、こっちの方が断然いい。
 今日のケンカもサッカー絡みだろうから、俺がいなくてもサッカーを続けろとかなんとか言おうかと思っていたが、そんな言葉なんて必要ないかもしれない。
「日向、ニタニタ笑って気持ち悪い」
「え?」
 箸を止めたまま、ついつい若島津を見ていたようだ。日向は慌ててひゅうが飯をかき込んだ。
「そんなに慌てなくても」
「いいだろ。食いたいんだから」
 そう言いながら、サラダをごっそりと箸で掴む。
「あ、サラダ!」
「全部食われたくなかったら、さっさと食え」
「せっかく見直してやったのに。サラダを全部食わせるか!」
 若島津の箸も、日向に負けじと動き出した。





 空を見上げれば、闇を深くしていた雲は消え、冴え冴えとした月があたりを照らしていた。
 虫達が入らないように素早く玄関のドアを閉めた日向は、「一人で大丈夫か?」と念を押した。が、若島津は「平気平気」と笑う。
「これくらいの時間まで外にいたこともあるから。それより、おばさん達によろしく言っておいてくれよ。ひゅうが飯もおいしかったって」
「おい。作ったのは俺だぞ」
「作り方を教えてくれたのはおばさんだろ?」
「ちぇ」
 拗ねてみせるが、若島津は笑い流すだけだ。
「じゃあ………今日は本当にありがとう」
 後の言葉は少し照れくさげだった。言われた日向も妙に照れくさいから、つい冗談にする。
「お礼は、算数の宿題でいいや」
「冗談だろ。自分でやらなきゃ身につかないぞ」
「いいんだよ。算数なんて、足し算と引き算が出来れば」
 偉そうに言う日向に若島津は溜息をついた。
「東邦に行ったら、苦労するぞ」
「う」
「そんなんだから、俺も行こうかなって思うんだ。じゃあな!」
「別におまえになんか…え!?」
 なんとなく聞き流しそうになったその言葉に、日向は自分の耳を疑った。今、若島津はなんて言った?
 が、聞き返そうにも、若島津はすでに日向に背中を向けて歩き出していた。
「若島津!」
 呼ぶ声に振り向いた若島津の表情はわからない。
「おまえ、今の」
「本当に行けるかは、親父の説得と受験次第だから、期待するなよ」
 それだけ言い置いて、若島津は走り去っていった。
 その姿が完全に暗闇に消えるまで、日向はそこで固まったように見つめ続けた。が、次第にその顔は喜びに変わっていく。

 ―――若島津が東邦に来る―――

 それはどんなものよりも、日向に力を与えるだろう。
「やっほ〜〜」
 ひとまずの障害も忘れて、日向は歓喜の声を上げながら、月に向かってジャンプした。



END


「ひゅうが飯」とは、愛媛の方の郷土料理だそうです。偶然手にいれたお米の料理レシピで知りました(天神のお米ギャラリーにありました) 。見た瞬間、これは使わねば!と思ったのは当然の事でした(笑)。

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