花見



 来年の今頃はどうしているんだろうな・・・

 若島津は立ち止まって、空を見上げた。
 青く広がる空からは、ハラハラと桜の花びらが舞い降りてくる。
 今年は、いつもよりも桜が早かった。まだ3月だというのに、あちこちの桜は満開で、きっと1週間後の入学式は寂しいものになるだろう。
 3年生を見送って数週間。部活は1月のうちに引退していたから、すでに自分達が主導の立場に立っているが、やはり実際に3年生がいるといないとでは気分的に違うものだ。
 でもきっと、あっという間にこれからの一年も終わって、自分達がここから巣立っていく日が来るのだろう。
「なにをぼうっとしてる」
 日向の声に、若島津はようやく我に帰った。
 サッカー部の主将はいつもの短パンにジャージを羽織った姿だ。ランニングの帰りなのだろう。
「別に。ちょっと感傷的な気分に浸ってみただけだ」
「感傷的?」
 日向は鼻で笑う。日向にしてみれば当然の反応だろう。逆に、同調されたら調子が狂う。
 若島津もいつもの自分に戻って、手にしていた書類の束を日向に押し付けた。
「なんだ?」
「監督からのプレゼント。4月早々に各部のキャプテンが集まっての部会があるから、その時の資料。それと大学部との練習試合にそなえての相手のデータ、それから」
「うへ〜」
 日向は見るからに嫌そうに顔をしかめた。
 正式にキャプテンになってから二ヶ月だが、サッカーそのものでのキャプテン業に不満はないが、それ以外の雑務には心底辟易していた。副キャプテンの若島津がサポートしているからどうにかなっているようなものだ。
「ちゃんと目を通せよ。実際に部会に出るのはおまえなんだからな」
 若島津はわざと念を押してやった。実際には、自分が細かく読み込んで日向に要点だけを教えることになるのはわかっていたが、たまには言っておかないとつけあがる。
 日向もそれはわかっているのだろう、すぐに膨れっ面を止めた。代わりに、日向も空を見上げた。
「確かにぼうっとしたくなる天気だよな。桜も咲いてるし」
「花見でもするか?」
「いいなあ・・・でも、練習の後にな」
 らしいセリフに、若島津は笑う。
「結局はサッカーなんだな」
「当たり前だろ。さっさと着替えてこいよ。練習時間が減っちまう」
 空から視線を戻した日向は、すでに練習モードに入っているようだ。若島津は「ラジャー」とふざけながら、クラブハウスに足を向けた。早く動きたくてウズウズしているのは日向だけじゃない。
「すぐに行くから、それでも読んで待ってろよっ!」
「うっせー」
 人の少ない校庭に、二人の声が響き渡った。



 春休み中の練習は変則的だ。特に一昨日と昨日は、数校集まっての合同練習試合だったから、今日の全体練習は午後から軽く流す程度だった。過度の練習は体を痛める原因になりかねない。
 だが、他の選手の経験値を高めるために、いつもよりも出場時間の少なかった日向と若島津には全然物足りなかった。
 だから、全体練習の後、他の数名とともに追加練習をした。
 それでも足りないくらいだが、これ以上は監督に禁じられた。
 結局、練習を終えると大人しく寮に戻るしかなかった。
 ブチブチ言う日向に、部会のデータでも読めよと言って部屋に戻った若島津だが、自分も落ち着かない。やっぱり暴れたりないようだ。
 読みかけの本も、どうにも頭に入ってこない。さっきからずっと同じページを睨んでいる状態だ。
 時計を見れば、21時を少し過ぎている。
 若島津はジャケットを掴んだ。
「どうした?」
 趣味のクロスワードパズルを広げていた島野が顔を上げる。
「ちょっと、頭を冷やしてくる。門限までには戻る」
「行くんなら、東門の方は止めた方がいいぞ。反町が夜桜見物するんだって張り切ってたから、うるさいぞ」
「サンキュ」
 確かに、お祭り大好きな反町に見つかったら、一人静かに散歩なんて出来やしない。
 若島津は一人で西門方向に向かった。桜なら確かに東門の方が本数も多くて綺麗だが、こっちもそれなりに綺麗に咲いている。クラブハウスの窓からいつも見えていた。
 勝手知ったる校内だが、夜となれば、なんとなく雰囲気が違う。
 どこからともなく白い物体でも出てきそうだが、若島津は少し冷たい空気の中を、ゆったりとした気分で歩を進めた。
 中等部と高等部では校舎こそ違うが、同じ東邦で丸五年を過ごしてきた。もう、ここはいわば地元のようなものだ。
 最初の一年目は、サッカーと空手をやる変り種として妙な注目を集めて落ち着かない日々を過ごしたりもしたが、今になってみれば、それもいい思い出だ。
 大空翼に勝ちたくて、その為には日向とサッカーをやるのが一番だと判断して、わざわざ故郷を離れて来たけれど、この五年の間に、そういう打算的な気持ちは薄れてきたと思う。
 もちろん、翼や同世代の連中に負けたくないという気持ちは今でも強いが、その為にここにいるという気持ちはない。一学生として、この東邦で学べて良かったと思う。
 きっと、あのまま明和にいてもそれなりに強いサッカーが出来ただろうし、得がたい経験もしたかもしれない。
 だが、これまでの5年間と引き換えにしたいほどのものではなかっただろう。
 そう思えるのは、多分・・・
 若島津は足を止めた。
 街灯の灯りを受けた桜の木の近くに、見慣れた影を見つけたのだ。
 彼は息を潜めるように、木を見つめている。
 若島津はしばらく声も掛けられずに彼を見ていた。かけたい言葉がある気がするが、それが上手く思い浮かばない。
 だから、気配に気付いた日向が振り向く方が早かった。若島津の姿を認め、ホッとしたように息を吐き出した。
「なんだ、おまえか。脅かすなよ」
「別に脅してないだろ。しかし、おまえが花見に来るとはなぁ」
 からかうように言うと、日向は僅かに顔を赤らめた。
「いいじゃねえか。暇だったから、適当に歩いてきただけだ」
「へえ」
「そういうおまえだって」
「まあな。東門は反町がうるさいって聞いたから、こっちに散歩に来ただけなんだが」
「そうだったのか。じゃあ、俺もこっちに来て正解だったな」
「そういうこと」
 若島津は笑いながら、日向と並んで桜の花を見上げた。
 近くに立つ街灯との距離がちょうどいいのか、ほぼ満開の花が実に綺麗に浮かび上がって見える。
 昼間に見るのとはまた違った風情があるものだ。
 しかも、隣には日向がいる。
 日向・・・
 彼がいたからこそ、この五年間の充実があったんだと思う。
 いきなり失踪されたり、監督と何度も衝突したり、いろいろな事件を起こされたが、そんなものは、彼とのダイナミックなサッカーの前ではなんてことはない。むしろ、日向と付き合っていく上では欠かせないオプションかもしれない。
 そう思えるあたり、自分も変わったのだろう。
 しかし、日向との付き合いもあと一年だ。きっと一年後の今頃は、それぞれの道を歩き出していることだろう。桜を見る時間などないくらいに。
 隣をチラッと伺えば、日向はまだ桜を見ている。
 普段は怒鳴っているかムッとしている表情が多い日向だが、こういう時の彼は、そこらの女の子達が騒ぐのも納得できるような端正な横顔を見せる。性格に難はあるが、同じ男から見ても日向は格好いいと言っていいだろう。尤も、一番格好いいのは泥だらけでサッカーをしている時だけれど。
「こんな風に花を見る余裕なんて、今までなかったよなあ」
 若島津の視線に気付いたのか、日向が呟いた。
「今までもずっと咲いていたはずなのに、全然目に入らなかった」
「花なんか蹴散らす勢いで走ってきたからな」
「ひでー言い方。確かにそうだけどよ」
「悪いことじゃないだろ。今走らなきゃ、いつ走るんだって思うしな」
「確かにな」
 日向は笑いながら、桜から若島津に視線を移した。
「でも、おまえに煽られたってのはあるな。俺一人だったら、ここまで走って来れなかったかもしれん」
「そんなことはないだろ。おまえがいたから、俺だって」
「いや、おまえが」
 と、こんなことを言い合う不毛さに気付いた二人は、顔を見合わせて笑った。どちらかがなんて、ナンセンスだ。
 走ったのも煽られたのも、自分が望んだ事だ。お互い様でここまで来たんだとわかっていた。
「さてと、桜が散ったら、次は紙吹雪だな」
 日向はちらりと腕時計を見て、もう一度桜の木を見上げた。名残惜しむようなまなざしに、若島津は少しだけ桜を羨ましく思う。
「もちろん。夏冬2回は浴びないとな」
 若島津は微笑んで、日向に手を振った。
「先に帰れよ。一緒に帰ると反町が詮索してうるさいし、俺はもう少し頭を冷やしたい」
 日向は少し口元を歪めた。が、すぐにいつもの表情に戻った。
「じゃあ先に戻る。あと20分で門限だから、グズグズしてるなよ」
「OK。じゃあ、おやすみ」
「おう」
 日向の背中が視界から消えるまで見送った。見えなくなると、若島津は桜の幹に背中を押し付けた。
 体が震えている気がする。先程からジワリジワリと体にしみてきている夜の冷気のせいだと思いたいが、多分違う。
 一年後の別れが辛いのではない。サッカーを続けている限り、どこにいても日向とは繋がり続けるだろう。そうわかっていても尚、整理しきれない気持ちが存在してしまう。
 いっそのこと、桜の花びらのように、この気持ちも潔く散ってしまえばいいのに。
「・・・軟弱者め」
 誰にともなく呟いて、若島津は顔を上げた。
 ほんのり色づいた花々と、優しい光を投げかけている月が、ぼんやりとした視界の中で揺れていた。








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