Buona notte





 オフの日というものは、とりあえず寝坊をしたい。
 しかも久しぶりの丸一日何の予定も入っていない完全オフだ。だから、昨夜は遅くまで最近始めたインターネットをして、かなり遅い時間まで起きていた。
 インターネットは、不用意に覗き込むと自分を貶める発言を目にしたりしてしまうこともあるが、逆にファンの正直な声を拾えたりして面白いものだと思う。ヘビーユーザーになるつもりはなかったが、あちこちのサイトを覗いていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。
 そんなわけで、今朝の若島津はいつまでもぐっすりと眠っていた。
 買ったばかりの厚手のタオルケットが気持ちよくて、うとうとしながらも目を開ける気にならなかった。
 だが、そんな若島津の耳元で、いきなり電話が鳴り響いた。
 若島津は思わずタオルケットで耳を塞ぐが、なかなか相手は諦めない。
 けたたましいその音を聞きながら、若島津は電話の音声をオフにしていなかった自分を恨んだ。
 が、数回のコールで留守番電話に切り替わった。
 メッセージを残すようにという自分の声をぼんやりと聞きながら、こんな朝っぱらからどこのどいつだと呪いの言葉を吐く。
(急に仕事が入ったと言われても知らないからな)
 しかし、その相手の声が聞こえた瞬間、目がパチッと開いた。
 いや、開かされた。
『おい、こら! 若島津! 今日は家にいるっていってただろ! 電話に出ろよ!』
 聞きなれたバカでかい声に、若島津は脱力する。
(なんだって、こんな時間に。向こうは夜だろうがよ!)
 若島津はまた目を閉じた。
 どんな用事があるのか知らないが、いきなり大声で怒鳴りつけるような奴の電話に出るもんか。
 だが、相手も執念深かった。
 一度目のメッセージが切れた後、五分ほどしてまた電話をかけてきた。
 落ちかけた瞼が開いた。
『―――――なあ、本当にいないのかよ。いつもは起きてるじゃねえか―――それとも長いトイレか? 早く出ろよ。用っていう用じゃねえが、ちょっとおまえの』
 そこで切れた。今度の声も普通の人よりも大きいが、先程より少しはトーンダウンしている。
 しかし、相変わらず留守番電話の使い方に慣れていない人間だと思う。あらかじめどういうメッセージを入れようと思ってかけていないから、ただ思いつくままに話してしまって時間内に肝心の用事が言えないのだ。
(用でもない用なのに二度もかけてきて、ご苦労様だなあ)
 若島津は目をこすって、枕もとの時計を見た。午前8時を過ぎたところだ。確かに、いつもはこの時間には間違いなく起きている。
 でも向こうは真夜中ではないだろうか。明日だって練習があるだろうに。
 若島津はようやく体を起こして大きく伸びをした。まだ少し寝足りないが、しょうがない。
 ベッドヘッドにもたれて、コードレスホンを手に取った。登録している短縮ダイヤルを押そうとしたその時、三度目の電話が鳴った。
「もしもし?」
『やっぱりいやがった!』
 開口一番それか!と怒鳴り返そうと思ったが、相手の声の中にどこか安心したようなものを感じて、とりあえず聞き流してやることにした。
『電話をシカトしてんじゃねえよ』
「寝てたんだからしょうがないだろ」
『寝てた? どこか具合が悪いのか?』
「違う。たまのオフだから寝坊してただけだ」
『なーんだ』
「なんだじゃねえよ。もしも隣りに女の子がいたら、おまえ、責任を取ってくれるのかよ」
『―――いるのか? だったら、悪かった』
 バカ正直な反応に、若島津は声を上げて笑った。
「いるかよ。いたら、電話を部屋に持ち込まない」
『からかうなよっ』
「寝てるところを起こされて、気分よく対応できるわけないだろ」
 そう言いながらも、若島津の機嫌は大分戻ってきた。わざわざイタリアから電話してきたのだ、多少は大目に見てやるか。
「それで、何だよ。明日も練習なんだろ?」
『んー。なんか久々に日本語を聞きたくなってよ』
「おい、そんな理由で俺を起こしたのかよ」
『いつまでも寝坊してる方が悪いんだろ』
「あのなあ」
 文句を言いつつも、向こうの時間を考えると、眠れなくて電話をしてきたんだろうと思う。慣れない異国での生活だ、日本にいる自分では想像もつかないストレスがあってもおかしくない。
『なんか、喋れよ』
 電話越しといってもなんだか声が違う。アルコールが入っているのかもしれない。
「喋れって言われてもなあ―――昨日はセカンドステージの開幕戦だったよ」
『そうだってな』
「俺は新田のいるレイソルと対戦した。もちろん、先輩の貫禄で封じたよ」
『あいつ、悔しがってただろ』
「そりゃあもう。あいつ、うちの道場で修業してただろ。だから余計に闘志を燃やしたみたいだ」
『岬は?』
「出場してた。映像を見る限り、左脚は大丈夫じゃないかな。でも最後に目立ったのは石崎だったよ」
『石崎!?』
「ああ。執念の顔面ヘッドで決勝点を入れちまった。あいつらしいよな」
 各チームに散った友人達の話をしながら、若島津はサイドテーブル上のノートパソコンを起動させた。
『いよいよ始まったって感じだな』
「そっちの話も聞かせろよ。肉体改造中なんだろ?」
『意地が悪いな』
「いいだろ。順調か?」
 開いた画面にはセリエAの前節の試合結果が載っている。当然、彼は出ていない。試合に出たはいいが活躍できずに途中退場、その後は試合出場機会を得られないまま、肉体改造に励んでいる。
 日本のマスコミは翼や若林の話題ばかりで、彼のことに触れる記事は目に見えて少なくなった。それどころか、早すぎた欧州進出だとかなんとか好きなように言われている。日本にいる時は雑誌やテレビなどで過剰なほど露出していたから、その落差が尚更激しく見えた。現に、インターネットで彼を叩いているページをいくつか目にした。
 もちろんそんなことは伝えないが、彼自身が誰よりも今の状況に鬱積したものを感じているに違いない。彼は今、どういう気持ちでイタリアにいるんだろうか。
『マッツコーチが親身になってくれてな―――厳しいが、成果は出てると思う』
「そっか。さすがにもうコーラは飲んでないよな?」
『完全禁止されたよっ』
 不貞腐れたような声に笑う。
「俺がほどほどにしとけって言うのに、ガバガバ飲んでたもんなあ」
『ちぇ』
「それで、イタリア語は上手くなったか?」
『う』
 訊いてはならないことを訊いたようだ。電話の向こうの様子は見えないが、彼の表情がなんとなく想像できる。
『Mi piace il coniglio』
「?」
『ミ ピアーチェ イル コニッリオ――――私はウサギが好きです。今日習った』
 思わず握っていたマウスを取り落としてしまった。
「なんだよ、それー。もっと使える言葉を習えよ」
『サッカーに必要な言葉だって覚えたぞ。PKはcalcioで、コーナーキックはcalcio d’angole』
 ムキになっている声を聞けば聞くほど笑ってしまう。
 だって、よりによって「ウサギが好き」だなんて。真面目に言っている姿を想像すると笑えるじゃないか。
『いい加減、笑うなって』
「せめて、サッカーが好き、にしとけよ」
 ベッドで笑い転げながら、若島津は久しぶりに声を出して笑った気がした。
 まったく、昔から彼は変わらない。サッカーをしている姿は誰が見ても格好いいし、不用意に近づくのを躊躇わせるようなオーラをもっているくせに、思わずからかいたくなるような面を見せてくれる。
『おまえ、覚えてろよな。今度会った時に』
「べらべらのイタリア語を聞かせてくれるのか?」
『!』
 ガチャンと今にも切ってしまいそうな相手に、ようやく若島津は笑い止んだ。
「ごめんごめん。ホント、おまえってば相変わらずだな」
『おまえも変わらねえよ』
「それは良かった」
 サラリと返すと、電話の向こうからチェッという舌打ちが聞こえた。
『おまえには叶わねえな。それより、さっきからなんかカチャカチャ音がしているんだけど、なんだ?』
「え? ああ、ごめん。パソコン」
 気を取り直して、あるサイトの検索をしていた。こういう時に限って、目当てのものがなかなか出てこない。
『おまえもやってんのか。若林の野郎が、便利だから俺にもやれとか言ってよ。そんな暇も金もねえって返したら、笑いやがった』
 若島津でも最近になって始めた位なんだから、自分以上にこういうものに無関心な彼なら、当然の反応だろう。
「そりゃあ便利だよ。時間を気にせずにメールのやり取りできるもんな」
『なんだよ、俺からの電話は迷惑か?』
 素直な反応に、思わず微笑む。
「完全に迷惑なら、最初からシカトしてるって。それにおまえの場合、パソコンを覚える暇があったら、サッカーをしろって言うよ」
『だろ? そうだよな』
 勝ち誇ったような声を聞きながら、若島津はようやく見つけた目当てのサイトを開いた。
 メールは便利だが、こうしてくだらない会話は出来ない。彼にも、そして自分にも、こちらの方が性に合っているのはわかりきっていた。
「大体、理解できないものを延々とやっても無駄だしな」
『おいっ』
「はははは。文句は、パソコンを操れるようになってからメールでな」
『ったく。やっぱりおまえは嫌味な奴だよ』
「それはどうも。さてと、そろそろ起きるか。おまえのおかげで、すっかり目が覚めちまった」
 そろそろ相手を寝かさないと、明日に影響を残しそうだ。本当はまだ起きる気がしなかったが、若島津は電話を切るぞと仄めかした。
『あ、ああ、そうか―――起こして悪かったな』
 まだ話し足りないような声だ。自分ももう少し話していたいが、そういう訳もいかない。
「大好きなウサギの夢を見れるといいな」
『バカヤロー』
 笑みが浮かぶ。
「Buona notte,Alfiere」
『え? あ、おい』
「おやすみ」
 ピッと電話を切る。ちゃんと聞こえただろうか。
 日本語をイタリア語に翻訳するサイトをブックマークして、画面に映っている言葉をもう一度口の中で呟く。
 次の時のために、忘れずにいようと思う。
 そしてパソコンを閉じた若島津は、ベッドの中に潜り込んだ。彼のおかげですぐには眠れなさそうだが、もうしばらく目を閉じていたい。
 でも、彼もイタリアで同じようにベッドに入っているのかと思うと不思議な気がする。
 ちゃんと眠れるといいんだが―――
「!」
 また電話だ。若島津は反射的に手を伸ばした。
『若島津』
 やはり彼だった。まだ話し足りなかったんだろうか。
「どうした?」
『あのな、言い忘れた』
「?」
『―――Grazie』
 え?と聞き返す間もなく、「Buona notte」というぶっきらぼうな声とともに電話が切られた。
 受話器を握ったままの若島津の顔に笑みが浮かぶ。
 「Grazie」の意味は調べなくても知っていた。しかし、日本にいた時は、自分に対して感謝の言葉なんて滅多に口にしなかったのに。
 それだけ、彼の状況は辛いのかもしれない。
 若島津は再びタオルケットに包まった。
 目を閉じると、時差8時間の地にいる彼がしっかりと眠れるようにと願いながら、もう一度心の中で呟いた。

 ―――おやすみ、キャプテン―――



END


主催者まなさん(DOLCE管理人様)と留衣さん(Diary管理人様)により発案、広められた企画に沿って書いた話です。

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