アジアの花

 

 若林がそこを訪れたのは、ほんの偶然だった。
 CM撮りでベルリンに来たのだが、機材の不備で撮影が午後遅くになってしまい、ポッカリ空いた時間を埋めるためにフラリと出かけたのだ。
 ここは、かつて東と西を分ける壁がそびえ立っていた場所だ。10年程前にこの場所に日本人が桜の木を植えて、今では立派な桜並木を作っているという話を聞いたことを思い出したのだ。
 同じドイツに住んでいるとはいえ、試合以外で他の都市に行くことが少ない彼は、ここの桜を見るのも初めてだった。
 見事な桜だと言っていいだろう。
 幹そのものは細くて頼りない感じがするが、八重咲きの桃色の花は満開で、ず〜〜っと遠くまで桜並木を作っている。日本の花がこの遠い異国の地でこれだけ根付いているという事に、素直に感動する。
 いまだ壁の残骸が土くれの中に残っている大地に咲く花の、なんと美しいことか。
 が、不意に視界に入ってきた姿に、そんな感動も吹っ飛ぶ。
「若島津!?」
 彼もビックリした顔で振り返った。相変わらずの長い髪が背中で揺れた。
「どうして、おまえが?」
「俺こそ聞きたいぞ。遠征でハンブルグに来てるのは知っていたが、ベルリンも予定に組み込まれていたのか?」
「いや。今日1日だけオフだったんで、今朝早くに出てきた」
「まさか・・・わざわざ桜を見にか?」
「ああ。桜の木があるって聞いたから・・・それに壁の跡がどうなったのかも見たかったし。でも日本じゃ花見の暇もないのに、海外で桜を見るなんて、変なものだ」
 若島津はそう言いながら、すぐそばの枝を嬉しそうに見上げた。
 若島津を始めとする高校選抜は、1月の高校選手権で当然のごとく優勝した東邦のメンバーから5人、南葛から6人、他には松山や次藤など、おなじみのメンバーばかりで編成されていた。今回は自分のスケジュールの問題で、会うことはないだろうと思っていたのだが。
 若林は桜を見ながらも、すっきりと整った横顔を見せる隣人に気が惹かれる。どうしてなんだろう、桜よりもじっと見ていたいと思うなんて。このままでは非常にマズイ気がして、懸命に言葉を探した。
「じ、じゃあ、井沢達も来てるのか?」
「いいや。最初は行くって言っていたけど、結局夜更かしが祟って起きられなかったんだ。最初の予定では10人の大所帯だったんだがな」
「へえ。寝る前に飲んだな?」
「ちょびっとな。意外にみんな弱いんだな」
「おまえが強いんだろ」
「そうかな」
 若島津は見たことがないような、とても柔らかな表情で笑った。
 思えば、若島津とこういう風に穏やかにサッカーとまったく無関係な話をしたことがないような気がする。いつも二人の間にはサッカーがあって、どうしてもお互いに勝ち負けを意識してしまう状況だった。でも本当は、こんな風に話してみたいと前々から思っていた。
 実際にこうして若島津と話しているのが不思議で、若林は妙に心が浮き立ってくるのを感じる。
 なんだか、このままずっと話していたい気がする。でも引っかかるものがある。それを無視したい。
「しかし明日も試合だろうが。よくここまで来たな。4時間近くかかるだろう」
「そんなにかかってないぜ。それに列車の中では寝てたから平気だよ。大体、試合相手がユースばかりだろ、手応えのある奴がいなくって、こっちは体力が有り余ってしかたがないんだ」
「よく言うな」
 相変わらずの自信家ぶりに苦笑すると供に、こういう若島津だからいいんだよな、なんて思う。
「コーチにバレたらマズイけど、一応口留はしてきたから」
「結局、何人で来たんだ。おまえしか見えないが」
「起きたのは俺と日向さんだけだったんだ。まあ、言い出したのが俺だからな」
 やっぱりなと思いながら、若林は周囲を見まわした。地元の人らしき姿は何人か見えるが、それらしい姿はない。
「日向はどこに行ったんだ? まさか迷子か」
「一番端まで行ってくるって走っていった。こっちの声も聞きゃあしない」
 若島津は憤然と言う。それで、1人でポツンと桜を見上げていたのだろう。彼の思いを知りもしないで、日向もいい気なものだと思う。俺なら、こいつを1人で置いておいたりしないのに・・・
「でも、あの人らしいよな」
 そう言って笑った表情に、若林は釘付けになった。
 優しい、慈しむような、柔らかな、そういう言葉を総動員したくなるような笑みだった。
 畜生! なんて言葉が浮かんでくる。
 日向の奴は、こんな顔をして自分を待っている相手のことを一体どれだけ想っているのか。
 ふと、若島津の髪に桜の花びらが1枚付いているのに気が付いた。取ってやろうと思いつつ、なんだか緊張して手を伸ばせない。
(俺は何をしてるんだ、同じ野郎相手に。でも・・・こいつの髪は柔らかそうだ。触ってみたい・・・)
 自分の思考の危うさに、若林はハッとした。一体なにを考えて・・・。でも一度考え出したら、髪に触ってみたいという欲求が膨れてくる。
「っくしゅん」
 若島津がいきなりクシャミをした。昨日まではかなり暖かったが、今日になって急に気温が下がったから、体が対応していないんだろう。
「すぐそこで、暖かいものでも飲んで待ってた方がいいんじゃないか。この分じゃいつ戻ってくるか」
「大丈夫だよ」
「けどな」
 なんとなく若島津に近づいた若林は、吸い寄せられるようにその髪に触れた。思ったよりもゴワゴワした髪から、花びらを取る。
「?」
「いや、花びらがな」
「おい、若林じゃねえか!」
 後からかけられた大声に、真っ先に振り返ったのは若島津だった。若林の手から長い髪が離れていく。
「もう、なにやってたんです! さっさと1人で行っちまって」
「すまんすまん。つい、な」
 以前会った時よりも一段と逞しくなった日向だが、若島津に頭ごなしに怒られて小さくなっている。さすがの日向も若島津には弱いようだ。その間に入るのは躊躇われるが、若林は2人に近づいた。
「よう、久しぶりだな。おまえ、絶好調だってな」
「まあな。おまえも桜を見に来たのか?」
「ああ・・・本当に綺麗な桜を見れたよ」
「ふうん・・・なあ、ここらへんで何か安く食べられる場所を知らねえか。そろそろ腹が減ってよ。おまえもだろ」
「そう言われれば」
 今度は若島津はあっさり同意する。若林は苦笑しつつ、手帳を出して、簡単な地図を書いてやった。
「・・・・・・この店なら、おまえらでも大丈夫だと思うがな。メニューがわからなきゃ・・・・・これを頼めばいい」
 お節介にも程があると自分を笑いながら、紙を破って若島津に渡した。
「ありがとさん。さ、行くぞ」
「え? もうですか」
「もう桜は堪能しただろうが。それに、おまえの手、冷たいだろ」
 そう言って日向は若島津の左手をガバッと握った。
「ほら、な」
 得意げな顔の日向は、手を握ったまま「じゃあな」ともう片方の手を若林に振って歩き出した。引っ張られた若島津はしょうがないと困った顔を見せて、若林に「ごめん、またな」と声をかけて、日向の歩調に合わせた。
「見せつけるなよな」
 若林はハーッと溜息をついて、長く長く続く桜並木を見渡した。
 思いついて、いまだあのごわついた髪の感触が残っている手で、たわわに花が開いている枝を1本折った。
 樹皮がうまく切れなかった枝からは、花がいくつも落ちた。
 若林の口の端に小さな笑みが浮かんだ。
 桜は、ちょっと遠くに離れて、木全体を見る方が綺麗なのだろう。
 自分には、その花を綺麗なまま手折ることは出来ないのだから。
 

 気が付けば、若林は1人でそこに佇んでいた。
 日向と若島津の姿はどこにも見えない。
 さっきまで2人がここにいたのだということが信じられないような気持ちにさえなる。
 徐々に暖かくなってきた陽射しの中で、まるで春の幻を見たかのような・・・
 しかし幻じゃないことは、手帳の中にそっと挿まれた1枚の花びらが知っている。

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