七 夕 飾 り



 健はいつもより早い歩調で歩いていた。暑い陽射しから早く逃れたいということもあったが、なによりも右手に持つ袋の中身を思うと急がずにいられない。
 ついさっき、兄弟子の佐々木さんのお母さんがやってきて、皆さんで食べてくださいとたくさんのアイスクリームをくれた。
 しかし稽古中の門下生に配ってもまだまだ余ってしまい、冷蔵庫にも入りきらないほどだったから、友達の小次郎のところに持っていきなさいと母親に渡されたのだ。母親も姉もご近所に配りに行った。
 小次郎の家に届けるのは苦でもなんでもない。
 溶けないように氷で満たした少し重い袋を左手に持ちかえて、小次郎の家を目指す。
 馴染みの通りに入ると、あちこちの軒先に七夕飾りが置いてあるのが目についた。
 明日は七夕だから不思議ではないが、それにしても昨年はこんなに飾っていただろうか。
「やあ、健坊。小次郎のところかい」
 家に出入している顔馴染みの植木屋さんだ。生垣の手入れ中のようだ。
「こんにちは。やけに七夕飾りが目立ちますね」
 植木屋さんは白い歯を見せて笑った。
「このあたりの連中に俺が配ったんだよ、七夕に使いなって」
「全部ですか?」
「学校とか公民館の依頼で大きいのを何本か切ってきたんだが、余っちまってな。処分するよりは使った方がいいと思って、ここいらの家に配ったんだよ」
 日焼けした手で額をこする植木屋さんの笑顔に、健もつられて笑顔になる。そういえば、小学校には毎年7月になると、大きな七夕飾りが登場する。飾りつけは主に低学年の児童が授業で作ることになっていて、健も作った記憶がある。あれはもしかしたら、ずっとこの植木屋さんが持ってきてくれたものかもしれない。
 今まで誰かが準備してくれているなんて考えたこともなかったが、そう思うと、なんだか嬉しくなる。
 そのまま先を急ごうとして、ふと自分が持っている袋のことを思い出した。
「食べませんか?」
 まだ冷いアイスクリームのカップとスプーンを差し出す。
「いいのかい?」
「まだ、こんなにありますから」
 重い袋を上げて見せると、植木屋さんは嬉しそうにアイスクリームを受け取った。
「ありがとうよ。次に若島津さんちの庭をやる時はおまけしなくちゃな。お袋さんによろしくな」
 健は笑って挨拶をすると、今度こそ小次郎の家へと向かった。
 目的の小次郎の家はすぐだ。次の角を曲がればすぐそこだ。
 見れば、表に小次郎達兄弟が出ている。笹の枝に飾りをつけているようだ。
「あ、健にいちゃん」
 声を掛ける前に弟の尊に見つかった。兄弟はいっせいに健の方を見た。
「よう。どうしたんだ」
「アイスの差し入れ」
 袋を示すと、小次郎の弟と妹は歓声をあげた。
 行儀よくしないと食べさせないぞという兄に従って、小次郎の弟と妹は部屋に上がって手を洗うと、カップ入りのアイスクリームを頬張った。
 小次郎は縁側に座って、直子に手渡されたカップの蓋を取った。イチゴの果肉が入ったアイスクリームだ。
「高そうなアイスだな」
「貰い物だから」
 隣に座った健は途中まで飾り付けた笹を見る。
「あ、おまえは食ったのか?」
 最初の一口を味わった小次郎は、健のことを気にしたのか聞いてきた。笹に飾った金色の折り紙を手に取っていた健は食べてきたと答えた。本当のことを言えば、一緒に食べるつもりで自分の分も入れてきたのだが、それは植木屋さんに上げてしまった。もう一つあるが、おばさんの分のつもりだから、食べるわけにはいかない。でも別に惜しい気はしていない。
「ふうん。なら、いいけど…っと、危ないぞ、走るな」
 勢いよく走ってきた末の弟の勝を小次郎は怒鳴った。かなりきつい声だが、慣れているのか、勝は平気な顔で小次郎の腕を引っ張った。
「にいちゃん、ねがいごとってなんでもいいんだよね?」
 七夕飾りの短冊のことだ。小次郎が頷くと、ほらーと下の兄の尊を見返した。尊は困ったように兄の小次郎を見た。きっと、まだ字が書けない勝に代わって書こうとしたのだろうが、なにか書けないようなことを勝が言ったに違いない。
「どうしたんだ。書いてやればいいじゃないか」
 小次郎の問いかけに、尊は視線をそらして俯いた。代わりに答えたのは妹の直子だった。
「だって、勝ったら……父ちゃんを早く帰してくださいって書いてっていうんだもん」
 小次郎は言葉が継げなかった。健も黙ってしまう。
「そんなの、書いていいの?」
 小次郎は答えられずに俯いた。
 小次郎たちの父親が交通事故で亡くなったのは半年ほど前のことだ。小学4年の小次郎を筆頭にした四人の子供が、母親と共に残された。
 幼い勝にしてみれば、死というものがよく理解できていないのだろう。
 純粋な願いごとなだけに、小次郎にも健にもどういえばいいのか分からない。
「勝、こういうのは自分の願いごとを書くんだよ。サッカーがうまくなりますようにとか宿題がなくなりますようにとか」
「尊にい、それは違うと思う」
「うるさいなー。いいんだよ、なんでも。母ちゃんに見られなきゃ」
 なんでもいい。父親に関することじゃなければ。尊はそう言っているみたいだった。
 父親のことには極力触れないようにしてきた兄弟たちにしてみれば、いきなり小さな爆弾を落とされたようなものなのかもしれない。
 それに、表面上は気丈に振舞っている母親を傷つけそうで、怖いのかもしれない。
 しかし勝には通じない。
「でも会いたいもん」
 勝は泣き出しそうな目で小次郎に訴えた。
 小次郎は軽く溜息をつくと、弟の頭を撫でた。
「そういうのはな、思っていてもちゃんと聞こえるから書かなくていいんだ」
「ほんとに?」
「ああ」
 しかし、小次郎は顔をしかめて自分のアイスクリームを見下ろした。溶けかけたアイスクリームが健の目にも入る。重苦しい空気が漂う。
「……たなばたって、なんか、つまんない」
 勝の呟きに、健は顔を上げた。
「勝、代わりに手紙を書こうよ」
「てがみ?」
「うん。手紙だ」
 皆が顔を上げた。健は直子が手にしていた短冊を抜き取って示した。
「別に、願いごとしか書いちゃいけないわけじゃないだろ。お父さんに手紙を書いて、彦星様か織姫様に伝えてもらおう」
「できるの?」
「織姫様たちにとっては年に一度のデート中だから、確実とは言えないけどね。直子ちゃん、短冊はまだあるんだろ?」
「うん。まだ切っていないのもあるよ」
「じゃあ、それで封筒を作って手紙を入れよう。お父さんと勝だけの秘密の手紙だ」
 秘密という言葉が魅力的だったのだろう、勝は目を輝かせた。
「はじめてのひみつだー」
 勝は嬉しそうに飛びあがり、尊に手紙を書いてとねだった。直子には封筒作りを頼む。最初は顔を見合わせていた兄弟たちだが、勝に急かされているうちに、自分たちも手紙を書こうという雰囲気になってきた。
 何を書こうかと話す小さな弟妹たちを見守る小次郎に、健は頭を下げた。
「ごめん、勝手なこと言って」
 小次郎はその頭を上げさせる。
「いや。俺こそ礼を言わなきゃ。親父のことになると、俺はだめだ」
 その表情は見たことがないほど暗い。
「親父の代わりにしっかりしなきゃって思っているのに、どうしていいかわからなかった」
「当たり前だよ。俺だって親父が死んだら……それより、日向も手紙を書けば?」
 健は手に持ったままだった短冊を渡した。
「言いたいこととか、あっただろ」
 父親が亡くなった後、小次郎が「まだまだ話したいことが一杯あったのに、もっとケンカをしたかったのに」と一人で泣いているのを見たことがある。
 健の場合は祖父だったが、同じようなことを思った覚えがあるから、小次郎の辛い気持ちはよくわかった。しかも小次郎は自分の悲しみに浸る暇もなく、妹や弟を支えていかなければならなかった。
「俺も書こうかな。おじさんにちゃんとあいさつをしたことがなかったし」
 短冊を見ていた小次郎は、不意に顔を上げて無言で頭を下げた。
「いいって。それより、アイスが溶けちまったな」
 アイスクリームの容器についていた氷が溶け出して、縁側の木の色を変えていた。半分ほど残っている中身は食べられないという状況ではないが、決して美味しいはずはなかった。しかし小次郎は勿体ねえと言いながらスプーンを動かした。
「せっかくおまえにもらったのに、捨てられねえよ」
 そう言ってくれる小次郎がうれしくて、健は一口くれとねだった。
 小次郎のスプーンが甘いクリーム状のそれを口に入れてくれた。すっかり温くなって、イチゴの果肉のクリーム和えを食べているような感じだったが、平気だった。健と小次郎は顔を見合わせて笑った。
「おーほしさーま きーらきらー」
 歌いながら手紙をもって駆けてくる勝を受け止めて、小次郎はスプーンを置いた。
「よし、手を洗ってこい。手紙を書いて、仕上げるぞ」
「はーい」
 まだまだ暑い日差しの中に子供たちの声が響いた。
 健も、小次郎の父親への挨拶文を考えながら、手を洗いに立った。
 夏の日差しはまだまだ翳りそうになかった。


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