中日ドラゴンズの立浪和義選手。
母子家庭に育ち、子供の頃から苦労掛けっぱなしの親に孝行するのは
当たり前の話であるが、彼はポケットマネーで孤児達を球場へ招待し
毎年、クリスマスのは孤児院へ駆けつけて、一人一人に自筆のメッセージカードを添えてプレゼント。
正月には餅つきとお年玉を振る舞い、野球を教えている。
子供の誕生日には必ず電話と手紙で御祝いのメッセージを送り続けているのだ。
これは彼が20歳である3年目のシーズンから欠かさず続けていることなのだ。


故・津田さんと仲の良かったBU(当時)清川さんは
津田さんの形見として、津田さんが使っていた(カープ用の)赤のベルトを譲り受け
BUのベルトも赤だった為、そのベルトをはめ試合に臨みマウンドに上がった時には、毎回ベルトを触って
「津田頼むぞ」と心の中でお願いしていたそうです。


ロベルトクレメンテ・・・首位打者4回、ゴールデングラブ賞12回の名選手
1972年のシーズン最終試合で3000本安打を達成、そのオフにニカラグアで
発生した大地震を救援する物資を私費で購入し、自ら飛行機で運んで現地に行こうとしたが
その飛行機が海上で墜落してそのまま亡くなった。
本来ならばどんな名選手でも引退後5年が過ぎなければMLBの殿堂には入れないが
彼だけは亡くなった翌年に殿堂入り。
野球選手である前に立派な人間であることが最大限に考慮されたのだと思う。


まだ北海道に冬の寒さが残る3月、新庄はこっそりと、重病に伏した少女を見舞った。
大の新庄ファンだったその子に「君さ、すごくかわいいよ。
きっと大人になったらモデルになれる。絶対に治るから」と、新庄らしい言葉で励ました。
パソコンのカバーにサインをして「今日は君のためにホームランを打つよ」と予告して、
本当にその日の試合でホームランを打ってしまった。
その少女は、あこがれのスターから勇気をもらったと言ってはしゃいだ。
ただ、いたずらな病魔が進むのは早かった。シーズンが開幕してから、その少女は天国に逝った。
最後に「1%でも生きることのできる可能性があるなら」
と米国の病院に移ることを決意したが、異国でその命を絶たれた。
ショックを受けた新庄はひどく落ち込んだ。「応援してくれてるファンを裏切りたくないから」。
笑顔のすてきだった少女へ、そしてプロ野球ファンへ――。
パ・リーグを盛り上げたいと人一倍思う男が、野球の素晴らしさを自らのパフォーマンスで体言した。


隻腕投手アボットは、インタビュー嫌いで有名だったんだが両腕の無い彼のファンが駆け寄り、
自分が野球選手にどうやったらなれるかといろいろ質問した時、
ゲーム後にも関わらず長い時間その子とコミニケーションを取っていた。
諦めない気持ちや、プロになる厳しさ、決してその子を障害者として扱った意見はなかった。
それどころか常人の数倍の努力が必要であるとか、自分は片手がないので左右バランスの隔たりの
克服の為にどうしたとか、静かに熱く語っていた。
両腕のない子は、実際器具を使用してコントロールの良い球をほおっていたし、すごい努力をしていた。


ハンク・アーロンと言えば知らぬ人はいないでしょう。
ご存知755本塁打の黒人選手。
ベーブ・ルースの714号を追い抜きそうになり、実際に追い抜いた時は全米中から脅迫、非難、侮辱の
手紙が何万通も届けられて本人も相当気分を害して落ち込み、投げ出したりしたくなったそうです。
しかし、これら脅迫状の事件が報道されると逆に励ましの手紙が殺到してアーロンを励ましたそうです。
彼の自伝によると、その励ましの手紙の中には次のような一通が紹介されていました。

『親愛なるアーロン様』
あなたがベーブルースの記録を破った時、私たち家族は病院でテレビ観戦をしていました。
実は、その直後に私たちの孫がこの世を去ったのです。
八歳の孫は「ハンクは今晩打つよ」といい続けていました。
あなたが本当に715号を打った時、注射針を右腕に刺していた孫は、左手を高く上げて、
テレビに向かって叫びました。
「やったあ!お父さん、やったぞ!彼はきっとやると思ってたんだ!」
孫は白血病と癌で寝た切りだったのです。あなたが私たちの可愛い孫に、
どんなに大きな喜びを与えて下さったのかをお伝えしたくて、この手紙を書きました。
みんながあなたを愛しています。孫が飛び上がって叫んだのをお見せしたかった。
病院の三階にいた全員がこのことを知っています。孫はあなたを我が事のように誇りにしていました。
ホームラン新記録を見るチャンスを孫に与えて下さったことに感謝します。


400勝投手・金田正一のいい話。

ロッテの第一期監督時代のこと。
現役時代から親しくしてる知人の頼みである病院に慰問へ訪れた金田。
「病院はワシ苦手やねん。辛気くさいやろ?」とイマイチ乗り気ではなかった。
病院についてある小児病棟に通された。
そこには12人ほどの子供達がいた。
みんな憧れのプロ野球の監督が来るということで昨日から楽しみにしてたそうで、
みんな笑顔で金やんのこと出迎えた。
それを見て金やん「なんや…病気いうてもたいしたことないんやな」と気軽に考えてた。
慰問が終って病院を去り際に小児病棟担当の看護婦から挨拶された時、
看護婦は金やんにこう言った。
「みんな白血病や小児ガンという不治の病を抱えてるんです…。
でもみんな希望を持って明るく生きてます。
本日は金田さんおこし願えてみんな感激してますよ」と……。
それを聞いた金田はそのまま床にへたり込んで人目も憚らず号泣したそうだ。
「ワシはこの年になって初めて命の尊さを教えてもらった…」

それ以後金田は不治の病で苦しむ子供達のためのボランティア活動に邁進するようになり、
それは名球会の活動の一環としても行われている。


斉藤和巳が背番号を66のまま変えない理由

エースに成長した背番号「66」の後ろ姿を天国から見守っている人がいる。
00年2月に亡くなった斉藤の妻・由美さんの祖父、松尾勇さん(享年80歳)だ。
葬儀の際に、勇さんに着せてあげたのが背番号「66」のユニホーム。
斉藤は、今もそのことを忘れていない。
「これで背番号を変えたら、きっとじいちゃんも分からないでしょうから」
その年のオフ、プロ5年目の初勝利でブレークした斉藤は、背番号の変更を球団から打診された。
それでも、勇さんへの思いもあってかたくなに断ったという。
「お盆には報告に行こうかなと思ってるんです」と由美夫人。
球宴に出場した投手の中で「66」は最も大きい番号。
今、斉藤の背番号は文字通りのエースの代名詞となった。


85年、阪神21年ぶりの優勝直後、とある熱狂的な阪神ファンがこの世を去った。
そのファンは「ゆうさん」という愛称で親しまれ、不治の病に冒されてからも
阪神ファン仲間とともにテレビで阪神の応援を欠かさなかった。
そんなゆうさんのお気に入りの選手は、2年目で正捕手の座をつかんだ木戸。
人づてにゆうさんの話を聞いた木戸は、シーズン中にも関わらずひっそりと
病室を訪ね、バットやサイン色紙などをプレゼントし、ゆうさんを励ました。
阪神の快進撃とは反比例するように、ゆうさんの病状は悪化の一途を辿る。
それでも、夢に見た阪神の優勝を見るまでは…と、泣き笑いの毎日が続いた。
優勝が近づいたころ、ゆうさんはすでに余命いくばくもなく、自宅で最期の日々を
過ごしていた。夢にまで見た縦じまの優勝をこの目で見るまではと、必死に
歯を食いしばってその日その日を生き続けた。
そして優勝の瞬間、もはや起き上がることもできないゆうさんは、ベッドの上で
声にならない声をあげ、涙を流して喜んだ。
そしてそれから程なくして、ゆうさんは天国へと旅立った。

優勝の歓喜と熱狂の最中、木戸が知人にこうつぶやいたという。
「優勝はもっと先でもよかった。そうすれば、ゆうさんが1日でも長生き してくれるだろうから…」


ナショナル・リーグができてまだ10年位しか経っておらず、
プロ野球だけで生計を立てるのは難しい時代の話。
フィラデルフィア・フィリーズのファーストを守っていたシド・ファーラーは
可愛い娘をたびたび球場に連れて来ていた。
娘は綺麗な声をしていたため、たちまちチームのマスコットキャラとなった。
ある日試合が終わった後、娘が泣きながら1人で立っていた。
シドのチームメイトが「どうしたの?」と聞くと「パパがいないの」と答えた。
チームメイトがシドを探すとシドは外野のスタンドで空き缶をずっと拾っていた。
「娘が綺麗な声なので音楽学校に進学させてやりたいんだが、金が無くてね。こうして毎日空き缶を拾っているんだ。」
当時は野球だけで生計を立てるのは難しかった。
そこでシドは空き缶を拾うバイトで必死に金を稼いでいたのだ。
これを見たチームメイトはシドの心意気に感動し、次の日からチーム全員で空き缶拾いをはじめたという。
娘は音楽学校に無事に進学でき、数年後有名なオペラ歌手、ジェラルディン・ファーラーとして故郷に戻ってきた。
ちなみにジェラルディンはロマノフ王朝最後の皇帝ニコライの想われ人だったという説もある。


現巨人コーチの須藤豊が現役を引退したときのこと。
どこからもお声がかからず、須藤が第二の人生に選んだのは
自宅から電車で2時間もかかる埼玉の鉄工所の仕事だった。

そして最初の出勤日の朝、慣れない早起きをし、慣れない手つきでネクタイを結んでいると、電話が鳴った。
出てみると、なんとそれは元チームメイトの王であった。

「いよいよ今日から第二の人生ですね。巨人軍で培ったことは
 きっと無駄ではありません。がんばってください」

当時すでに押しも押されぬ大スターだった王。その日も夜試合が
あるはずなのに、わざわざ早起きして電話を入れてくれたのであった。


鉄人衣笠が若手だった頃の話

バッティングが荒くてどうしようもなかった若い頃の衣笠。
当時打撃コーチだった関根潤三氏は単身赴任で
広島若手選手の合宿所に泊り込んでおり
衣笠には毎晩数百回の素振りを課し
関根コーチ自身も深夜までその素振りを指導していた。

毎夜のマンツーマン指導の成果が出て衣笠はなんとかレギュラーに定着しかかっていた。

ある日の市民球場での試合後、『今夜ぐらいはいいだろ』と
衣笠は酒を飲みに出かけた。
久し振りの外出で、つい時も忘れて飲み続け
したたかに酔っ払って合宿所に戻った時にはとっくに門限が過ぎていた。

衣笠が合宿所の玄関からそっと上がろうとしていると
浴衣姿の関根コーチがスーッと現れた。
『しまった。ドヤされる。』と衣笠は思ったが関根コーチはただ
『遅かったなサチオ、さぁ、今夜もバットを振ろうや』と
あの何とも言えない優しげな表情で衣笠にバットを差し出す。

真夜中の合宿所の玄関先でいつものとおり、ふたりきりでの素振り練習が始まった。
衣笠は酔いの中でバットを振りはじめたが意外にも関根コーチは門限や飲酒のことには一切ふれず
ただ淡々といつも通りの指導をするだけ。

衣笠の心には余計にこたえた。
『関根コーチとの素振りの約束を勝手に破ってしまった』
『少しくらい打てるようになって、いい気になっていた』
『レギュラー出場を当たり前と思い込み始めて油断していた』
弱い自分の情け無さ、関根コーチへの申し訳無さと有り難さで衣笠はワンワン泣きながらバットを振り続けた。


巨人軍で長年バッティング投手を務めた峰さん。
最初は大洋に居たが芽が出ず解雇。その後、何と巨人から誘われて張り切って練習していたが、
首脳陣から、さっぱりブルペンへ行く指示が出ない。
そこで確認してみると実は現役としてではなくバッティング投手としての採用だったことが判明。
(春のキャンプ中まで球団から説明は全く無し)
知り合いに巨人へ移籍したんで頑張ると報告していたそうで泣きそうな顔で落ち込んでいた時に
王さんから「峰ちゃん、俺、アンダーシャツ(ユニフォーム用)のサイズを1ダースも間違えちゃってさあ、
俺の身長には合わないんだけど峰ちゃんの身長には偶然合うと思うんだ。悪いけど使ってくれないかなあ?」
とアンダーシャツ一式をプレゼントしたそうです。
律儀な王さんが自分のサイズを間違えるはずが無い。
しかも王さんならば自分で注文しなくてもメーカーから届くはず。
気の毒なくらい落ち込んでいた自分を励まそうとして、王さんが下手な嘘をついた事に峯さんは感激。
それ以後、殆ど王さん専属のバッティング投手として投げ続けて、王さん引退後も仕事を続けたそうです。


ジャッキー・ロビンソンの話。

 黒人初の大リーガーとして登場した彼は、
 敵チームどころか味方チームからもいわれなき差別を受けていたが、
 不平不満を言わずにプレイに専念する姿に、味方チーム、そして
 敵チームからも同じプレイヤーとして認められていった。

 そんなある日、彼は審判の判定に抗議して退場を喰らってしまった。
 だが彼は、
「あの審判、俺の肌の色について一言も言わずに退場にしやがった。」
 と、黒人として差別されずにただの野球選手として退場処分を受けたことを喜んだということだ。


王さんが現役最後のシーズン、最終試合の時点で引退を決意していたものの引退発表は11月4日と遅かった。
これは広島−近鉄の日本シリーズに水を差さないための王さん一流の気配りによるもの。
王さんの人格者ぶりをよく表しているエピソードだ。


一般には門限を破った堀内を教育のため王が殴った、ということになっているが
実際は堀内は門限の数分前に宿舎に戻ってきている。
ただ、チームが連敗中で宿舎全体がピリピリしている中、堀内が聞こえよがしに
「俺は門限に間に合ったからな!」大声を出し、さらに女性に電話をかけ始めたことで
主力選手がいらだち始めた。雰囲気を察知した王が周囲の総意を代弁する意味で
力一杯殴りつけた、というのが事の真相。
以降堀内の素行は幾分改まり、周囲の選手達にも受け入れられるようになったという。


大杉勝男選手が引退した年の最後の巨人戦、
ヤクルトの選手が胴上げして、最後に全員で記念写真を撮ることになった。

微笑ましい光景を、だれひとり帰らず見守った巨人ナイン。それに
気づいた大杉は、一塁側ベンチに向かってこう声をかけた。

「おい、一緒に撮ろうよ!」

こうして大杉の引退記念写真は、なぜか巨人ヤクルト両チームの全員がニッコリ笑顔を揃えた。

誰からも愛される、大杉らしいラストシーンだった。


古田が4打席連続ホームランのタイ記録を作ったとき、
4本目のホームランボールを拾った子供が、古田にボールを渡そうとしたら
「君が持っているほうが記念になる」といってサインをしてその子に返していた。


横浜で少年野球の子供たちと現役を引退して数年以内の元プロ野球選手との
チャレンジマッチがテレビ企画で実現した。
しかし実力差を考慮して元プロは投手一人、野手一人、一塁手一人、外野手一人の計四人。
4対9のハンディキャップマッチとなった。
レポーターが少年チーム側のピッチャーに質問した。
「抑えられる自信のある選手はいる?」
テレビ用に謙虚な顔を作っていた少年だが、ちょっとニカッと笑って「香川さんなら…」
少年も小学生ながら120kmを越える速球を持ち、コントロールにも自信があった。
テレビの映し出す先にはダイエー引退後数年たった香川の姿があった。
間違いなく引退後体を動かしていないであろうその肉体は推定体重140kgはあるのではと思わせる。
横にムキムキの高橋慶彦が立っていたこともあり、その落差は見た目にも激しすぎた。
いざ試合が始まった。少年は香川に渾身の一球を投げる。
カキン。簡単に左中間を抜ける打球。「うっ」少年は呻いた。
4人しかいないのですぐにまた香川の打席となった。今度は慎重に少年は球を放る。
カコン。簡単に今度は右中間にはじき返された。「そ、そんな」
幾度も回る香川の打席。
しかしボール球には絶対手を出さないくせに、ストライクゾーンに放った投球は全て長打にされる。
全く容赦なく香川は長打を放ちまくり、走る度にゼイゼイ体を震わせる。
だがどんなに息を切らしても、香川のバットはボールを的確に捉えるのだ。
少年はプロ野球選手の凄みを肌で知り、顔面を蒼ざめさせた。
そして悠々と香川はグラウンドを去っていった。
その後その少年がプロを目指したのかどうかは、誰も知らない。


秋山幸二選手の姉は確か若くして白血病でなくなった。
入院してるときに「幸二が野球選手になりたいのなら きっとお姉ちゃんが守り通すからね」と言った。
姉の余命が短いことを唯一知っていた秋山の母親は「守り通す」の言葉にハッとさせられた。
娘が自分の病気を知ってるはずがないのに。
91年のオールスターで自打球を眼に当てて失明の危機に追いこまれた秋山が見事復活したときに
秋山の母親はこのことを思い出したらしい。
それと昔ある雑誌で秋山物語という漫画が載っていたが、
それによると、秋山は野球部の練習の合間に、よくお姉さんのお見舞いに行っていた。
秋山は「野球部の練習をもっと休めれば、もっと姉さんのお見舞いに来れるのに・・・」と言ったところ、
お姉さん(病気になる前にバレーボールをやっていたらしい)は
「幸二、私はもうバレーボールはやりたくても出来ないんだから、一生懸命野球を頑張りなさい」
と答えたそうだ。
それを聞いた秋山は何も言えなかったという・・・。
それから間もなくして秋山のお姉さんは亡くなったが、秋山はそれまで以上に野球に打ち込むようになったとの事。


楽天の田尾監督は弟を亡くしている。
田尾と弟は同じ少年野球チームにいたのだが田尾曰く
「弟のほうが野球センスがあった」とのこと。
しかし弟は呼吸器系が弱くそんな弟のために田尾は入団時の契約金で
田舎の空気のいいところに家を建ててやったのだが・・・


創立したてのニューヨーク・メッツはボロボロだったが、ある試合でその中でもダメダメな選手がホームランを放った。
大喜びのベンチだったが、三塁を踏んでないとアピールがありアウト。
ベンチを飛び出したステンゲル監督は当然猛抗議。
ここでメッツのコーチが監督に一言。
「そのへんにしといた方が身のためですぜ、ボス。奴さん一塁も踏んでないんですから。」


94年一月、イチローらオリックスの選手が養護学校を訪問した。
言い出したのはベテランの藤井だったが、自主トレ中ということで、
有志の参加は一朗(イチロー)を含めてたったの7人だけだった。
「僕も小さい頃、プロ野球選手の言葉やプレーに何度励まされたか分からない。
だから、僕らがそこに行くことにより、その人達を力づけてあげられたらいいなって思うんです」
出発前に一朗(イチロー)はこう言った。ところが行ってみれば全く逆の結果が待ち受けた。
「皆さん体が不自由にもかかわらず、一生懸命生きてるんです。感動させられたのは
〃体が不自由だから〃という一言で絶対かたづけられない。可能性を追い求めて何事にもチャレンジしている。
話を聞いたり、実際にそういう姿を見せられ、こちらの方が恥ずかしくなってしまった」
辛い練習にも弱音をはかなかった一朗(イチロー)が養護学校の生徒と触れ合った時、
涙が溢れて止まらなかったという。


「何故一流選手の息子は大成しないのか?」と言われているが
大抵のプロ野球選手の親は一般人。つまり息子の方が親よりかなり上手い。
名選手の息子は名選手になるかもしれないというのは変な話だ。


故牧野茂氏の著書から・・・

王の食欲は、まさに「鯨飲馬食」である。
おそらく、胃の中にも歯があるのだろうと、私は疑っている。

ゴルフに行って、昼飯の時。
「カレーにハンバーグにカツ丼!」とか注文する。
カレーなんぞ、スープの代わり。
ハンバーグをおかずにして、カツ丼を食う、という感じだ。
そして、食いながら「晩飯は、何を食いましょうかねえ?」と言い出す。
私などは、気持ちが悪くなってしまうのである。
中華料理のパーティの時など、王は孤独だ。
なにしろ、もの凄いスピードで、次から次へと平らげるので。
一緒のテーブルだと、食べるものがなくなってしまうのだ。
仕方なく、食の細くなった高齢の球団職員が同じテーブルにつき、辻褄を合わせている。

巨人のV9時代、甲子園遠征時の竹園旅館での話。
甲子園三連戦では、巨人軍は一頭の牛を、まるごと消費してしまう。
ステーキなど、一人一人に切り分けられてるときはよいが
焼き肉などの時は、生焼けでも、皆どんどん口に運ぶ。
そうしないと、食べのがしてしまうのだ。
巨人軍の、もう一つの戦いが、そこにはあった。
しかし、連覇を重ね、選手の年齢が上がってくると、さすがに食欲にも、衰えを見せ始める。
三連戦の時は、一日は、あっさりとした魚料理になる。
そんな中、以前と変わらずに、ガンガン食う男が二人いた。
川上監督と、王貞治である。
監督は、少しのビールで顔を真っ赤にし赤鬼のような形相で、食べまくる。
王は上半身はだか。身体にバスタオルを巻いて食いまくる・・・


俺の伯母から聞いた話を一つ。昭和30年代、伯母の夫である伯父は、東京近郊に工場を建設出来る程、事業に成功した。
伯父は工場完成の祝典を盛大にやりたいと考え、その為に巨人の選手を呼ぶ事を思い付き八方手を尽くした。
そしてやっと都合がついたのが当時主力選手だった国松と、入団2,3年目の王貞治だった。
当日は二人のサイン会も予定された。
そして式典当日、工場には関係者の他、巨人の両選手のサイン目的で千人以上の近隣住民が集結した。
しかし当日の天候は悪く、サイン会の途中で雨が降りだし、そしてそれは本降りになった。
その時、王貞治はサインを中断し雨の中を飛び出して群集を整列させ、自らリードして群衆を工場や
倉庫の軒下に整列させ、そして自分は背中に雨を浴びる位置にいながらも最後の一人までサインを書き続けた。
その姿を見ていた伯父は伯母に、「おい、あの角ばった顔の若いのは今にもの凄い男になるぞ」と話しかけた。
当然、伯父と伯母は今も王貞治の大ファンだ。