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沖永良部資料館

永良部百合の花

沖永良部の民謡で最も親しまれている永良部百合の花の作詞・作曲に関する資料が山口正文様の奥様からいただきましたのでここに公開いたします。これは南海日日新聞社の切抜きを読めるようにと 奥様から依頼されたものです。

南海日日新聞掲載文を三箇所訂正しました

訂正文 訂正前
山口正文 山口政文 (奥様から正文が正しい)
百合の球根は百余の鱗片が 百合のは百余の鱗片が
百合作てィ遊しばヤークヌ互(た)げに ヤー ヌ  ヤーのあとの文字がかすれて  にしか読めなかった。

                                                  

永良部百合の花
  山口正文
  発行所
名瀬市山下町四
南海日日新聞社
電話271
編集印刷発行人
村山家國
昭和38年7月20日
土曜日



沖之永良部新民謡「永良部百合の花」は郷里の人々にも他の島の人にも歌の出生その他色々の点について未知或は誤解もあるのでこの際それをはっきりさせたい。

「永良部百合の花」は私の父、禎善 (故人)が作詞した。その四節ともいちおう掲げてから筆を進めたい。

永良部百合ぬ花アメリカに咲かちやりくぬうりが黄金花島によう咲かさ

仇浪ぬ立ちむ揺らるなよたげにやりくぬ肝(ちむ)揃りてイ咲ちゃぬ花ぬよ   う美(ちゅ)らさ

いかな横浜ぬ波荒らさあてィむやりくぬ百合は捨(し)てィるなよ島ぬようくぶに(原作はくぶにで後で宝に直す)

永良部百合ぬ花御万人(うまんちゅう)ぬ宝やりくぬちばてィ作り出いじゃさ玉ぬよう黄金

   先ず一節であるが、私が筆を取った動機の一つは各節とも歌詞の内容が理解されていない為首をかしげる同僚さえいるのが意外であり残念であったからである。その当時百合根はクリスマス用としてアメリカに輸出しその代金はドル(即ち金貨)で支払われる。実際にドルが島に落ちる訳ではないが国際決済としては金貨でなされるから白銀の花はアメリカに黄金の花は島にとの対照表現である。

   二節もその背景が分からなければ意味するものは何も分らない。永良部百合の今日までの歴史は百合輸出貿易商団(横浜市)との間の関係を抜きにしてはあり得ない。今でこそ生産者と輸出商側の間で価格の折合いがつかぬ時は農林省や関係当局の価格調整もあるが戦前は全くの野放しで島民は幾度か苦渋を飲んだ。島民の団結にもひびがはいって白百合の平和境に風波が立ちはじめる。ここで言う仇浪とは島の内外に立ち騒ぐ波、紛争のこと。

永良部では心を肝(ちむ)という。百合の球根は百余の鱗片がしっかり抱き合ってその真ん中から軸芽が伸びて花が咲くのであるが島を揺すぶる紛争の波に動揺することなく百合根の団結に見合う島人の心の団結の美を讃えようとし強調したもの。

   三節は輸出商側との協定が得られずどんな悲境に立たされたとしても島特産の百合を守って行きたいとの島人の願望であることはたやすくうなずけよう。この歌の終りは島ぬようくぶにであった。私は沖縄の言葉は殆ど分らないが非常に大事なものを沖縄では「くぶに」と言うらしく永良部も昔沖縄との交流のさかんであった時代は使っていたらしい。

しかし昭和の初期であるからくぶには廃語になっているし、私の母が何度も訂正を勧め父もあとで宝と訂正して発表した。

   百合組合結成による交渉で百合の売買価格は飛躍的に昂騰した五寸六寸七寸で一銭二銭三銭が四銭六銭八銭になった。それと共に対立も深まっていたのであるが農民が自覚し、搾取に甘んじた時代から脱したことは百合史上の一大変革である。これを否定する者はあるまい。

 さてこの御万人(うまんちゅ)であるが、これも沖縄語である。大衆とか全民衆とかに敬語をつけたのではあるまいか。父には沖縄の言葉好みがあったらしい。御万人は永良部でよく歌われ踊る汗水節の中にもあって親しまれていることばであり訂正する必要はなかったのである。「玉ぬよう黄金」であるが永良部には「玉黄金」という子守唄がある。各節とも終りを「たまくがにくがに」で結ぶ。もとは玉や黄金ということであろうが、  何よりも大事なものという一つの語に熟して使われる。その意味を兼ねると共に百合が実にみごとな球形をして黄金色を帯びている様をさす。そして本物の黄金となってはね返ってくる生産の期待と喜びをこめたものである。

以上父が「永良部百合の花」と題しての作歌であるが、次の歌は誰だろう。

   砂糖作てィ遊(あ)しば百合作てィ遊しばヤークヌ互(た)げに働ちゅてィ浮世ようわたら

この歌は父の一節三節の歌と共に父の作という名のもとにレコードや本に載っているが父の作ではない。父の前々  任者(和泊町長、後県会議員)沖元綱さんの作である。沖さんはこれに勤労の歌または勤労節としたらどうだろうかと語っておられたということであるがその外の事は分っていない。遊しばということが普通の遊楽やレクリェーションを意味せず働くことそのものが遊びであるという二宮尊徳ばりの勤労観はいかにも沖さんらしい。

沖家にはこれ以外の歌が遺っていないものだろうか。

それではこれらの歌の発表と曲についてふれたい。父の四つの歌の中で一節と三節が先ず発表された。昭和六年、私の姉(現種子田ツル=和泊町和泊)の長女の出生祝の席で竜為孝兄(故人)が参席していた私の母に「叔母さん、叔父(私の父をさす)の作った歌に私が那覇節をつけて歌ってみましょう」と前置きして客全体の前で歌ったのが披露のはじめである。竜兄は私と又従兄であり日頃私の父母を叔父さん叔母さんと呼んでいた。父の歌ははじめ汗水節の曲で歌わせようとも試みたが、歌がくすんでおおらかさがなく公表に踏み切ることができなかったのであるが竜兄の節付けは共感を呼んでその後の宴席、競進会その他の場所で歌われ流行しだした。父の作ばかり四つともとる事を父が遠慮し、精農運動と勤労精神を盛り上げた沖さんの歌もぜひ入れたいということでこの三つの歌が歌い継がれて現在に到っている。

竜兄が那覇節をつけたと言うことがまたあれこれと推論のでることでもあるろう。枕節とかスンガ節とか原曲が持ち出されているが私は確信をもってこれを肯定することが出来ない。私が戦前聞いたスンガ節も戦後昭和二十三、四年手々の現地で聞いた枕節も永良部百合の花と似たところはあるが決して同一ではない。日本復帰前に奄美図書館長故文英吉氏もこの曲は郡内にも沖縄にも無いと話されたことがある。竜兄が那覇節をつけてと言われたことは沖縄の特定の一曲を指すのでなく創作した沖縄調の曲という意味とも考えられるし、またスンガ節をもとにして新しく練り直したものであったかも知れない。ただし現時に至って枕節であるとして歌われるものが永良部百合の花に近づいてきているのは面白い傾向である。

曲については異論もあるであろうが、私は敢えて曲にこだわるつもりはない。

ただ私としては「永良部百合の花」のすべては美しい永良部の風土に根ざし、百合の歴史の流れに培われ、郷党の詩情と樂想から生まれた島の文化の華であることを想い、その純粋性を保ってゆきたいと願うだけである。

付記 父は一生を和泊町政に捧げ百合に命をかけ黄金時代を築き事実沖永良部百合組合(和泊・知名合同の)と生死を共にした。

(筆者は金久中教師)

 

平成十四年二月九日  大福富吉