当館の初代館長  松下兼知(かねとも)は、 医師として福山病院 院長また社会福祉法人たちばな会の理事長として活躍のほか、自身も学生のとき児島   善三郎画伯に油彩の指導を受けておりました。世界各国を仕事で訪れては、時間を見つけスケッチをし 作品を制作、平成元年、84歳でこの世を去るまでの作品を企画展以外の時は6号館に「松下兼知遺作展」 として展示いたしております。


松下兼知の言葉

私は絵を好んだ祖父の血を受け継いだのだろうか、幼いころから絵を画くことに興味を持っていた。 画家になるために美術学校に進みたいと思っていたが、体が弱かったのでついに夢に終わった。
大正13年4月、七高の理乙(医学部コース)に入学以来、
七高時代は鯵坂寿君やサイタ亨君らとともに、
年に1回開催の七高記念祭には油彩の展覧会をやったり、
私の画いた絵はがきを作って配布したりした。
時には授業をサボっては阿久根地方にスケッチに出かけたりして、
数学の先生に御目玉を食らったこともあった。
昭和4年、長崎医大に入学してからも、学内で度々油絵展覧会をやって、林学長に誉められた。
ところが、呉秀三先生門下生故高瀬清教授の精神科教室に入局したところ、
病理標本作りに追われて絵どころの騒ぎではなく、数年間絵筆から遠ざかってしまった。
けれども絵心は止まず、児島善三郎氏から絵の指導を受けて、ある年の夏休みに栃木県那須地方に出かけて、箒川辺で一気に絵を画き上げたこともあった。その絵は原爆で焼いてしまった。
昭和8年、長崎医大卒業後精神科教室に入局して45円の月給取になった。ちょうどその頃、 パリで画道にいそしんでおられた高田力三氏の個展が、長崎市で開催されたので見学にって同氏の作品 「パリの朝」(4号)を85円で買い有頂天になって自宅に持ち帰ったところ、妻桂子にしたたかしぼられた。 絵一途の若き日の思い出である。
終戦間近の8月9日、不幸にして長崎にて原爆に遭い九死に一生を得て郷里福山に帰り、父の経営していた 2haの蜜柑山畑の中に、昭和25年に精神病院を建てた。昼間は精神病の患者様との対応に集中する日々の中で、 心のどこかでは絵を求めつづけていた。絵は心に優しさと安らぎを与えてくれ、その優しさは精神病患者の 心のどこかに通ずるものがあると思う。こうして何年かたって生活に少し余裕ができて世界各国を旅行して スケッチし、また財産のほとんどを投げ出して有名画家の作品や古代土器等を購入してきた。私はこれらの古代土器や美術品からは無限の神秘性と迫力を感じ、名画は私の情操形勢に目に見えない暗示を与えてく れる。
多数の絵画を集めて気づいたことは、油絵の場合は青い眼の外国の方によって描かれるとき、 初めてその立派な個性が表現できるのではないか。私はパリのルーブル美術館に4,5回、 アメリカのメトロポリタン美術館、ソビエトやスペインの美術館など、世界各国の美術館を見学して回って みて、失礼な言葉かもしれないが黒い目の日本人の描いた油絵は日本でどんなに騒がれても、 青い目の外国の方の作品とは比較にならないのではないか。私はパリのオークションに度々出かけているが、 日本人の作品では藤田嗣治氏のものがせりに出ている程度である。
黒い目の作家による日本の絵画は、もう一度原点に返って山水画の日本画に取り組むべきではなかろうか。 文化庁あたりも、もっと日本画や日本独特の版画に目を注いで世界の人々が日本画に目を向けるように仕向 ける必要があるのではなかろうか。医師であり、かつ美術学校も出ていない私の暴言は、日本の画家たちに よって批判されるであろう。いくら非難されても甘んじて受けたい。