「親子ラジオ」
                                     
木製の小さなスピーカーから流れる新民謡や島唄のメロディー。奄美市名瀬の市街地をエリアに放送を続ける「親子ラジオ」が、来年で開局六十周年を迎える。 大島紬の織り技術者を中心に、庶民の日常に溶け込んできたささやかな娯楽だが、現実的には、紬産業の衰退に歩調を合わせるかのように、ラジオの設置台数も 減少の一途をたどっている。
 親子ラジオは米軍共同聴取施設を活用した有線ラジオで、戦後、沖縄や奄美で開設された。
 奄美市の親子ラジオは、同市の名瀬市街地を中心に、浦上町、平田町、小宿の三方までをエリアとしている。島唄や昭和前半の歌謡曲を中心に、出船・入船、 時期によっては市議会の様子も放送する。受信機の設置時に三千円がかかるが、それ以外の負担は毎月の受信料千五十円だけ。電気料も利用者の負担にはならな い。
 発信元は名瀬鳩浜町の大洋無線。現社長の岡信一郎さん(62)の父・源八郎さん(故人)が、戦後間もない一九五二年、米軍政下の奄美で創業した。復帰後 の六三年には奄美でもNHKテレビが見られるようになったが、奄美ではすぐに受像機を購入して恩恵を受けられる市民は少なく、手軽に聴ける親子ラジオは庶 民の間に広く浸透したという。
 特に重宝したのは、基幹産業の大島紬製造に携わる織り技術者たち。当時、市内には多数の紬工場があり、どの工場にも親子ラジオが据え付けられていた。
 岡さんによると、紬の生産反数と比例するかのようにラジオの設置数も増加。反数が二十九万七千六百二十八反とピークを迎えた七二年には、設置台数も三千五百を超えたという。
 ところが、近年の紬不振で生産反数が減少。織り技術者も少なくなり、設置台数は二〇〇〇年に千九百四十四、〇四年に千三百三十まで激減。現在はついに約六百まで落ち込んだ。
 「このままでは、奄美の文化と共に歩んできた親子ラジオの歴史が終わってしまう」。岡さんの友人で、自らも大島紬業を営む重村斗志乃利さん(58)ら有 志は、親子ラジオを「絶滅危惧(きぐ)希少企業」とネーミングし、存続へ向け動き始めた。高校生によるバンド出演など、新たな構想も練っているようだ。
 運営資金は受信機の設置費用と毎月の受信料のみ。「二人の従業員の給料を支払うと、自分の食べる分も残らないのが現状」と話す岡さん。一方「親子ラジオ は沖縄にも既に残っていない。日本でただ一つの貴重な放送手段の火を消したくはない」と六十年の節目を前に、表情を引き締めた。
 同市名瀬井根町の紬工場。今も木製の受信機が、奄美の文化を流している。四十年以上、織りに携わっているという女性(65)は「ラジオからの懐かしい音楽は心地良いね。作業がはかどる」とほほ笑んだ。