硫黄島の紹介


硫黄島全景
硫黄島全景  鹿児島港から南へ108Kmの海上にあり、霧島火山帯に沿って噴出した火山の島。年中噴煙をあげる硫黄岳の麓には温泉が至るところから湧き出し、海を黄色く染めているところから、別の名を鬼界ヶ島という。昭和9年、海底火山の噴火で東方海上に「昭和硫黄島」が誕生している。島で採れる硫黄は薩摩藩の時代には重要な貿易品で、明治初年に本格的な採掘が始まってから昭和39年に閉山するまで硫黄の島として栄えた交通は月11便の定期船「みしま」を利用する。また、平成6年度には全国初の村営飛行場がオープン。平家の落人伝説にまつわる史跡名勝や、空を飛び翔るクジャク、温泉、火山、海と小さな島にパッケージされた資源は観光地としても名高く、三島村3島の中心地です。

【位置】N30°47′22″E130°18′27″【周囲】14.5q【面積】11.67Ku【世帯数】69世帯【人口】146名


硫黄島の史跡・観光案内

熊野神社

熊野神社 鹿谷事件で平清盛の怒りをかった成経康頼俊寛はここ硫黄島に流されていた。成経康頼は早く許されて都に帰れるようにと紀州熊野三所権限を勧講してここに祭った。後に安徳帝が居住されてから来真三種権現と改められ三種の神器を内陣にまつられた。

安徳天皇陵
安徳天皇陵
 1185年(元暦2年)源義経に敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を乗せた寮の御船を真中に西方へ落ちていき硫黄島へたどり着いたと言われる。安徳天皇が住まわれたと言われる黒木の御所跡(長浜豊彦邸)があり同邸に一段高く御座所の跡が残っている。

俊寛堂
俊寛堂 177年鹿谷(京都)での平家討滅の陰謀がもれ鬼界ヶ島(三島村硫黄島)に流された俊寛は再び故郷の土を踏むことなく、1179年9月39歳で絶望の生涯を閉じた。

東温泉
東温泉 岩にうち寄せる白波と燃え上がる活火山を背景に、野趣あふれる露天風呂に浸る、硫黄島ならではの温泉。 霧島火山帯に沿って噴出した海底火山によってできた天然露天風呂で湯量も豊富な上、各種ミネラルを含んでいて効能も高いという大自然満喫、南海の秘湯です。

総合開発センター
総合開発センター この施設は、250名を収容する大集会場や温泉を利用した大浴場・会議室・研究室・図書室・郷土資料室・それに広い競技場と25mプール、隣にはキャンプ場も設備された多目的施設で、地域コミュニケーションや文化の向上、地場産業振興に役だっています。

俊寛像         中村一門による熱演
俊寛像 絶望の果てに治承三年九月、三七歳で亡くなった俊寛の供養の念を新たにするために、平成七年五月、俊寛銅像を建立除幕式を行った。除幕式に招かれた中村勘九郎氏が「私の夢は、ここで俊寛を演じることです。絶対にやりたい!」という熱い言葉に島民の人たちが応えて実現したのが、三島村歌舞伎「俊寛」です。 中村一門による熱演

祭り


八朔踊り
八朔踊り 八朔太鼓踊りは、文禄慶長のころ豊臣秀吉の朝鮮出兵に参戦した硫黄島の侍大将長浜吉延らが凱旋祝に、安徳天皇を祭神とする硫黄大権宮に奉納した踊りと言われ、現在は、旧暦8月1日〜2日にわたり、島の青年たちによって伝承されている。

柱松(はしたまつ)
柱松  1177年鹿谷(京都)での平家討滅の陰謀がもれ、俊寛らは硫黄島に島流しとなった。当時の島の様子を平家物語には次のように記してある。「都をでてはるばると多くの波路をこいで行く所なり。おぼろげにては船も通はず、島には人稀なりけり。おのずから人はあれども、衣装なければ、この土の人にも似ず、いうことばをも聞き知らず。島の中には高き山あり。とこしなへに火燃え、硫黄というものみち満てり。かかるが故にこそ硫黄が島とはなづけたれ。」成経と康頼ははやく許されて都に帰ることを祈ったが、俊寛はそのような信心を無用のこととして、一向に神仏にすがろうとはしなかった。治承2年7月、赦免状が届いてみると、俊寛の名はなく、ひとり島に残されることとなり、二度と故郷の土を踏むことなく1179年9月、39歳で絶望の生涯を閉じた。 その悲業の死をとげた俊寛をいたむ伝統行事として旧暦7月15日の夜送り火を焚く。九尋三尺(約12m)の大松明を作り、小さなツガ松に火をつけ松明に投げあげて火をつける。この松明のことを「ハシタマツ」とよんでいる。

永良部岬公園      硫黄岳展望台
永良部岬公園 別名「恋人岬公園」ともよばれている。海に向かい展望もよく、屋久島や口永良部島が広がる景観は本当にすばらしい。 硫黄岳展望台 硫黄岳六合目付近できた展望台からの眺めはとくに優れ、背後に険しい山肌、正面には真下の崖から海に向けての眺望が広がります。