平成19年度鹿児島県大学図書館協議会講演会記録


    
                                                       鹿児島県大学図書館協議会研修委員会

テーマ: 「天璋院篤姫について〜なぜ篤姫は将軍家へ嫁したのか〜」
講 師: 寺尾 美保 氏(尚古集成館学芸員、鹿児島純心女子短期大学非常勤講師)
日 時: 平成19年12月12日(水) 14:00〜16:00
場 所: 鹿児島国際大学附属図書館 視聴覚ホール
参加者: 35 名


講演内容
  来年のNHK大河ドラマ「篤姫」の放送を控え、篤姫の生い立ちから将軍家へ嫁いだ事情、江戸城
  での篤姫の存在についてなど、篤姫の実像について史実をもとに講演して頂いた。
  内容の要旨は以下の通り。(当日配布資料に基づく)

○鹿児島での篤姫
 天保六(1835)年12月19日(他説あり)、今和泉島津家・島津忠剛の娘として生まれる。
 幼名は一子(かつこ)、於一(おかつ)。斉彬の養女となり「篤姫」(あつひめ)、近衛家の養女となっ
  て「敬子」(すみこ)と名乗り、将軍家へ嫁いだ。夫である家定の死後は、「天璋院」(てんしょう
  いん)と号した。
 島津斉彬とはいとこ同士にあたる。
 上屋敷(本邸)、濱屋敷ほか複数の下屋敷(別邸)で生活
 篤姫に関する記録はほとんど見つかっていないが、暮らしぶりは、困窮していた様子が伺える。
 
○篤姫が徳川家へ嫁いだ経緯
 徳川家…徳川家祥(後の家定)の継室選び
     広大院(11代将軍家斉の正室、島津重豪の娘)の血筋を求めて島津斉彬に打診
 島津家…徳川家からの打診を受けたが、斉彬、斉興に適齢の女子がいなかったので、適齢の女子
     を一族中から広く捜した。久光の娘於哲と忠剛の娘於一(篤姫)が候補となり、斉彬が藩
     主に就任後、於一に絞られる。
 *当時、日本は外圧の脅威にさらされており、政情が不安定
  薩摩藩でも御家騒動などいくつかの問題を抱えており、また外様大名という立場(良からぬ噂を
    立てられやすい)からも、徳川家と親交を結ぶことにより後の藩政を有利にしようとしたのでは、
  と推測される。

○江戸城での篤姫
・将軍継嗣問題
  南紀派(家茂:血筋…良)と一橋派(慶喜:能力…高)で対立
  薩摩藩は一橋派 権力を持つ大奥は血筋を重視、つまり南紀派
    →斉彬は、篤姫に大奥での内部工作を依頼
  篤姫と家定…仲は良かったが、結局継嗣問題について動けるほどの時間はなかった。
  (進言役として西郷隆盛が出てくるが、外様大名ゆえにかえって家定の反感を買う)
  安政五(1858)年に家定、斉彬が相次いで死去 同年、家茂が次期将軍となる。
   「残念口惜しく、顔向けできない…」この頃はまだ「気丈な」篤姫の姿は見られない。

・篤姫の転機
  家定、斉彬が相次いで死去…後ろ盾を失う 家茂の養母という立場に
  文久二(1862)年 家茂が皇女和宮と結婚
  この時期、外交問題のピークにあり、家茂は上洛(計3度、約2年間)
  家茂不在時の江戸城で頼りにされていた篤姫…大奥での存在感が増していた。

  和宮と篤姫→当初は生活習慣などの違いからあまりうまくいっていなかったようだが、家茂を
        支えるという共通意識の元に、次第に相互理解を深めていった。
  薩摩藩が推す慶喜と対立する立場にあったはずの家茂を、たいへん気遣っていた。
   (慶喜とはそりが合わなかった?)
  慶応二(1866)年に家茂が死去、次いで孝明天皇が死去し後ろ盾を失った和宮に、自らの境遇を
    重ね共感を覚えた(のでは?)

○大政奉還後
・徳川家存続のために尽力
  西郷隆盛への嘆願書…徳川家の家名の存続を願う内容、篤姫の聡明さが伺える。
  明治十五年(1882) 篤姫が養育した徳川家達と近衛家の娘(篤姫の養父・近衛忠煕の孫)が結婚
  明治十六年(1883) 篤姫 逝去
   明治十七年(1884) 島津家・近衛家・徳川家ともに「公爵」に…篤姫の没後半年
   その後、徳川家と島津家の婚姻など、両家のつながりが残る。


○篤姫の人物像
 自分の信念に基づき真っ直ぐ突き進む、というよりは、激動期にあっても状況に応じて自分の進
 むべき道を判断できる、しなやかな強さを持った女性だったのではないだろうか。近年では、彼
 女の人生を「幕末のファースト・レディ」として、評価されることも増えている。