平成18年度鹿児島県大学図書館協議会講演会記録


                                                           鹿児島県大学図書館協議会研修委員会

日 時 :平成18年12月11日(月) 13時30分〜15時
場 所 :鹿児島大学附属図書館 5階 ライブラリホール
参加者:26名
開会  :開会挨拶  鹿児島県大学図書館協議会代表館 鹿児島大学図書館長 早川 勝光
    講師紹介  鹿児島純心女子短期大学図書館長 小川 斈夫

論題 「双子の競作」〜疎開船・金十丸と三角兵舎を書いて〜
     鹿児島国際大学・鹿児島純心女子短期大学非常勤講師   前橋 松造 氏

<講演内容>
 鹿児島大学から、南日本新聞に入社し編集局(文化部)教育担当記者、論説委員会、広報局事業局を経て
、退職後は鹿児島国際大学と鹿児島純心女子短期大学で非常勤講師として「現代マスメディア論」「鹿児島
の教育史」等を講義している。その合間に執筆活動を続けている。
  「双子の競作」という論題に驚かれてと思うが、実は私には双子の竹之という弟がおり、葉山で生活して
いる。私が平成13年「奄美の森に生きた人」(南方新社)を執筆した時に弟から一緒に少年時代の思い出
を書こうという提案を受けた。
  私は今まで弟の人生の居場所を2度奪っている。私的な事になるが、両親は川辺町の出身で、大正初めに
奄美に渡り、名瀬で雑貨商を営んでいた。昭和の初めには土木建築業をやっていた。子沢山で兄弟が8名も
おり、私たち双子が生まれたのは昭和6年、5番目と6番目がいっしょに生まれたため、おとなしい弟が川
辺の親戚に里子に出された。戦争が激しくなり母と子どもたちは奄美から川辺に疎開することになり、8月
20日、疎開船「金十丸」で疎開した。途中、悪石島沖で潜水艦に追撃され命からがら錦江湾に逃げ込んだ。
昭和19年9月中学1年にして弟と再会。戦後も生活が苦しく弟を引き取る事もできず、やっと高校2年に
なった時にわが家に迎え入れることができた。私が大学4年の夏休みにラジオ南日本が南日本新聞社内に発
足し、放送記者が必要だということで入社。入社後、「取材記者のくせに町で会っても挨拶もしない」とい
う悪い噂が広がった。そこで一年遅れで卒業する弟に県外に出てくれるよう頼み、弟は横浜の教員となって
鹿児島を離れた。このように2度、彼の居場所を奪ったので、年をとってからは弟の言うことはすべて聞い
てやろうということで、自分は『金十丸、奄美の英雄伝説 : 戦火をくぐった疎開船の数奇な運命』を書く
ことにし、弟は学徒義勇兵として知覧の特攻基地の「三角兵舎」で過ごした思い出を書くことになった。
  「金十丸」は昭和17年4月に十島村が造った船で、今までの船が蒸気機関であったのに対し、ディー
ゼルエンジン搭載で奄美の人々にとっては、ヒーローだった。就航1年後には前村船長は潜水艦に追われて
も逃げおおす、「金十丸」は浮沈船だという話ができている不思議な船だった。一方、弟は川辺に帰省して
友達を尋ねたりして取材後できあがったのが「三角兵舎の月」である。読んでみるとすばらしく涙ぐむよう
な物語がたくさんあった。それを鹿児島大学のOGやOB、劇団「かきのみ」が、阿佐ヶ谷で上映した。今年第
9回自費出版文化賞の個人史部門のベスト10に選ばれ話題となった。私の方は第31回南日本文化賞を頂
き双子で競作したことが評価されたとうれしく思っている。
 話を戻し、「金十丸」について詳しく話していく。私は疎開船として乗船し、悪石島沖で追撃された体験
を持って「金十丸」について書こうと思ったが、戦後、同じ月の1日遅れ同じ場所で英国のボーフィングと
いう潜水艦に「対馬丸」が撃沈されたという衝撃的な話が飛び込んできた。もし、「金十丸」がやられてい
たら「対馬丸」は助かっていたのだろうと運命というか1日が生と死をわけたと思うと胸に迫るものがあっ
た。ぜひ、「金十丸」は助かって「対馬丸」はやられたのかを調べたい、また奄美の子どもたちにヒーロー
と言われた前村船長とはいかなる人物であったか戦中から戦後、いかに危険な海であったのかを調べたいと
思い取材を始めた。「金十丸」に関する資料は皆無に等しく僅かに「三島村村誌」「十島村誌」に6・7行
くらいあるだけである。ほとんど資料らしい資料は残っていない。横浜在住の弟に相談すると、「日本丸」
や東京お台場の「船の科学館」にあるかもということであった。早速、「船の科学館」に行くと戦時中の船
舶名簿に「金十丸」「対馬丸」共に船体構造などが詳しく記されていた。私が知りたかったのは「金十丸」
が助かり、なぜ「対馬丸」がやられたのかであり、おそらく喫水の差ではなかったかと思いその点から調べ
た。「金十丸」の喫水は3.37メートル、「対馬丸」は8.15メートル。この差から「金十丸」は助か
ったと思い、これを物語の切り口としよう思った。「金十丸」はおもしろい特徴を持った船で大阪の天保山
のふじながたという元禄時代からあった造船所で、大正時代になって駆逐艦専門の造船所であった。「金十
丸」は駆逐艦仕様の船であることがわかり、溶接ではなくてリベット(鋲)を両方からたたいてつくったも
ので大変頑丈にできている船だった。荒波に耐えるよう考え造られた特殊な艪のつくりがしてあった。物を
書く時には感動点が必要である。私は驚くことが好きである。
  「金十丸」が伝説的な船であることを書くためにはトカラ近海がどのくらい危険であったかということを
調べなければならない。その頃、野間恒著『商船が語る太平洋戦争』が出版され、話題となった。早速、野
間氏に連絡を取るといっしょに調べようと助け舟を出して頂いた。疎開船を含めた商船が50数隻沈没をし
ているが判明した。それらの資料をもとに遺族を中心に取材をした。中でも徳之島「武州丸」が諏訪瀬島沖
で沈没し148名が死亡。当時、亀津小学校の先生だった方が95歳で存命だが、自分以外の家族7名を疎
開させみな死亡したが、50数年たった今も政府からの広報はもらっていない。8年たった昭和27・28
年頃から島に人々はそれぞれ失踪届けを出して抹消したという話を聞き、この悲劇だけは書かなければいけ
ないと思い書いた。
 錦江湾から沖縄・台湾に向かって輸送船が数多く出るが、ことごとくトカラの沖で潜水艦から撃沈される。
錦江湾を出た船団、昭和18年12月8日〜昭和20年3月21日に全部で16船団(延べ197隻)、そ
の中でも悲劇だったのは「華頂山丸」という船で、桜島沖で待機していたらB24に空爆を受け同行の3隻は
沈没し、残った1隻の「華頂山丸」は沖合に向けて出発せよという命令を受け出発、大島の笠利沖で沈没する。
これが錦江湾を出た最後の船となるわけだが、「金十丸」だけは悠々と行き来していた。当時の通信長の井
上さん(85歳)の証言によると前村船長の腕の良さの一言だった。そこで、前村家を訪ねあて、何度か訪
問し、資料や話を収集した。最後の攻撃の時にB24から爆撃されて時の破片が胸の中に残ったままで、これは
私の勲章だからと切開しなかったと、息子さんから聞かされた。港で働いている人達や天文館などさまざま
な話を聞いてまわった。取材をする時はたくさん網を広げなければいけない。すると、いろいろな方から連
絡がくる。薩摩っぽ船長は豪快な人で千里眼であり、ジグザグ航海(の字航法)を思う存分使った。軍司令
部からは錦江湾を出る時には、船団を組むようにとの指令が出されていたが、一匹狼で航行しており、それ
で助かっている。
 終戦後、「金十丸」はアメリカ軍に接収され、唯一の琉球弧の船として生活航路を走る。本土の教科書が
入ってこない中、教科書密輸にも活躍、奄美復興時に島の連絡員を乗せて行き来したのも「金十丸」であっ
た。また、「金十丸」は本来十島村の船であったが返還されない「金十丸」をシージャックする事件なども
起きた。
 本を書くときは八つのパワーがなければ書けない。一番に企画力そして気力、体力、調査・取材力、文章
力、構成力、最後に訴求力=感動力がなければならない。企画力は時代の空気・色・匂いを文章の中で生か
されていかなければならない。体力がなければ気力はでてこない。自分で足を運んで見て、聞いて調査・取
材する。友は取材元である。東京の双子の弟の取材の力も大きい。
 書き終わって思うことは、兄弟の絆は大切だと思う。よきライバルであり、絆の元であると思う。これか
らも弟と競作していきたい。歴史、事実はそれを掘り起こして、書き留めていることによって初めて歴史に
なると思う。歴史の谷間に埋まってしまったいろいろな出来事、人物が鹿児島にはまだまだあると思う。私
たちはこれからも事実を掘り起こしてそれを書き留めて歴史の谷間に埋めてはならないという事柄について、
これからも記録文学作品として書き残せたらと思う。
 最後になるが、この1冊の本が国会でとりあげられて、トカラの海で沈んだ船の海洋慰霊祭をしようとい
うことで10月政府がやってくれた。高齢化して21名しか参加できなかったということだったが、1冊の本
が政府を動かしたということに対して私自身うれしいと思う。天皇家にも4冊献上された。まとまりのない
話になったが、ありがとうございました。