平成13年度鹿児島県大学図書館協議会講演会記録


                            鹿児島県大学図書館協議会研修委員会
                                           壽福千代子(鹿児島大学)

1.テーマ   父・椋鳩十物語−薩摩人に学ぶ発想の転換−
2.講 師    久保田喬彦氏(椋鳩十文学記念館館長)
3.期 日    平成13年11月2日(金)
4.時 間    午後1時30分〜4時
5.場 所    椋鳩十文学記念館(姶良郡加治木町反土2624-1)
6.参加者   22名(12機関)

7.	講演の概要

 今回の講演会は姶良郡の椋鳩十文学記念館で、館長の久保田喬彦氏に講演をしていただき、
講演終了後は記念館の見学をそれぞれ行なった。
以下、講演の概略を書き起こし要旨をまとめた。敬称は略させていただいた。

 はじめに

 講師は高校教員になった時、父椋鳩十から「子どもの言葉を良く理解しなければいけないよ」
とよく言われたという。人間は自分の経験のなかで人のいう言葉を受け止めて解釈をすること
が多い。ある時、「椋先生はどういう方でしたか」という質問に、「ある面ではいいいかげん
でほらふきで」と答えたところ、まさかそんなことは、と信じてもらえなかった。「まじめで
几帳面な方でした」という別の先入観があり、そうではなかったということを説明するのに時
間がかかったことがあった。
記念館に展示、紹介されているように、字は万年筆どころか鉛筆で、おおらかな大きな字で書
いており、また和服をきちっと着て、きちんと正座して書くことも無かった。

椋鳩十の由来について

 昭和8年作家としてデビューしたが、記念館正面入り口正面には、児童文学者としての出発
点の少年倶楽部を、中には生い立ちから、活動の足跡などをパネル等で紹介している。現在、
椋の心からの願いだった「童心」というテーマで展示をしてある。
最初に山窩(さんか)調という短編集を発表した。これはヨーロッパスペインのバスク一族の
ジプシーを頭に描いて置き換えて書いたものである。椋は自分は山窩の子孫で一箇所にじっと
しておられない血が流れていると言い、山窩の子孫である小椋という姓から「椋」という姓を
取り、青鳩が10羽も集まれば大馬鹿であろうということで名を「鳩十」とした、と言っていた
という。そういう所に発想の転換というか、人と違った考え方を持っていた。

椋鳩十の少年時代

 小学校1年生の時「1枚目に今朝はご飯がおいしくて3杯食べました。2枚目には汁も3杯
食べました。ばあさんが馬鹿の3杯汁と言いました。」という作文を書いて皆の前で大馬鹿も
のだと紹介された。2年生の時には、「学校から帰ったら何をしますか」という質問に「遊び
に行きます」と正直に答えた。「勉強をします」と嘘を言った子供は椋よりも早く椋の家に牧
場の牛を見にきていた。また3年生の修身では乃木大将がコップ1杯の水で口をすすぎ、顔を
洗ったという話で、「顔だらいが凍っていたらどうしますか」という質問に、水の豊富な長野
で育った椋は「捨てます」と素直に答えて叱られた。4年生の時には「マッチ売りの少女」を
読んでもらい、感動して涙をぽとぽと落としてしまった。落ちた涙で絵を描いていたところ、
ひどく叱られた。あいにく前日に、先生は次の句をめぐって父親と大激論をしていた。 「馬の
屁に吹きとばされし蛍かな」、「蚤しらみ馬の尿する枕元」が傑作であると言った父親と同じ、
話にならん大馬鹿ものだ、おまえみたいなのは死んでしまえと言われ、傷つき、行動も乱れた
少年時代を送っていた。そして5年生の時「死ということはどういうことですか」と先生に尋
ねた。すると先生から「アルプスの少女ハイジ」という本を与えられた。自宅裏の松林の中で
読んでいるうち、すぐに物語の中に飛び込んでいった。本の中で「夕焼けはどうしてこんなに
きれいなの」というハイジの問いにおじいさんが「太陽が山々に向かってさようならといって
いるからきれいなんだよ」という一節があるが、ふと目を上げると日本アルプスの山々に夕日
が照って、手に目をやると真っ赤に染まっていた。その情景と現実とが重なりあい、いっそう
言葉が胸に染み込んでくる。先生から言われたことや、自分のこれまでの過去の心の扉も開か
れてきた。心の扉をひらく、感動は人生の扉を開くと椋は言っていたが、そこから出てきたも
のであり椋鳩十の出発点でもあったのではないだろうか。

鹿児島へ赴任

 昭和3年に結婚、鹿児島に女医としてきていた姉を頼って5年に来鹿した。中種子高等小学
校で代用教員をやり、その後、加治木高等女学校の教諭となった。教員時代はフンドシ授業事
件やネクタイ忘れ事件など、あわてもので、いろいろと失敗談がある。また当時の鹿児島では
よそ者意識が強く服装(ダブルの背広)や外国語を使う、ということで町議会で問題になった
りもした。

なぜ鹿児島に約60年間も長くいたか

 鹿児島の人は変った面もあるが、奇想天外な面もある。日露戦争で戦いに臨もうとする時、
「本日天気晴朗なれとも波高し、皇国の興廃この一戦にあり」と詩のような言葉を言った東郷
平八郎やフランスの万博でトイレに漆塗りの小箱と桜紙を置き、日本の技術を有名にした前田
正名、農家のお祭りで有料トイレを作った日高やんぶしさあなど、普通の人と違う、発想の違
う薩摩人と椋は同じような香りを持っていたのであろう。

鹿児島県立図書館長時代(42歳から)と読書運動

 県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地
元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が
大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
 そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるため
に予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年くださ
い」と言ったという。当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林を
さまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」のような文学や教養を高める読書でなく、経済的に
も儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協な
どの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。この読書選定委員
会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子ど
もの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運
動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間
耳を貸してくださいという運動だった。
 また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移
動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島
の人と共通点があった。

60年鹿児島の地で過ごして

 「精神的にも肉体的にも/松風になりたい/日本の村々に人たちが/小さい小さい 喜びを
/追っかけて 生きている/ああ 美しい/夕方の家々の窓の/あかりのようだ」という椋の
辞世の詩がある。本当の幸福はひとりひとりの心、家庭が幸福であれば、国全体が幸福である
というのである。
 椋は表面では奥さんをさん付けしていたが、家庭では一番の大将、うち弁慶、外仏であった。
病床に就いてから、亡くなる3日前に息子たちに病室に集まるように命じた。「俺が死んだら
なあ・・・」と遺言めいたことを話し、まわりが「死ぬなんて縁起でもない病気は良くなるの
だから」と言うと「黙れ俺のいうことを聞け」と一喝、「わずかな財産だが兄弟仲良く争いだ
けはするな」また嫁には「素直ないい孫を育ててくれてありがとう・・・」などと嫁、婿、子
供たち、孫ひとりひとりの手を握りしめて、それそれの特徴をとらえて自信を持たせるような
言葉をかけた。 2日前には上の辞世の詩を書き取らせ、元気になった時の材料になるからと、
うわごとを記録に取ってくれと言い、喋れなくなったら書こうともした。そして最後は、奥様
と手を握り、握っては握り返し、会話をしながら82才で息を引き取った。
最後に講師の著書である「父・椋鳩十物語」の一節を朗読、紹介された。

以上講演要旨。

 講演終了後のお話で、講師は昨年大病をされたにもかかわらず今はお元気になられ、「毎日
生かされているという気持ちで過ごしています」という言葉にも心打たれる思いでした。
 今回の講演に際し会場の提供や準備等、館長はじめ文学記念館の方々に大変お世話になりま
した。感謝申し上げます。