中国と私
| 〇 中国との関わり 昭和16(1941)年市来農芸卒業前の2月、中国の新民会という半官半民の軍政府機関の政策で、今でいう交換留学生として男子だけ16名が中国に渡った。 北京の南の郊外で9ヶ月間中国語と中国農業を学び、修了して2名だけ帰国し14名は四つの会社に分かれて就職した。 私は華北交通株式会社 警務局 愛路課に就職した、鉄道沿線の住民の宣撫だった。後半の1年半は河南省の黄河の近くで、在中国日本軍の為に中国の農家に水稲栽培の指導をしていた。 昭和19(1944)年父の病気で呼び戻されたが、父の死と戦況の悪化で再渡支できず、9月から教職に就いた。 |
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〇 第一回中国訪問 平成4(1992)年8月、昭和16年 18歳で中国に渡った16名の内10名が参加して中国旅行を実施した. 北京、西安、上海6日間の旅でした。 約56年前日置郡東市来駅から夜汽車に乗り、関釜連絡船で韓国に渡り朝鮮半島を縦断して旧満州を経由して北京に着いたのは4日目でした。 今回の北京は,、福岡から大連経由(2時間)大連で入国手続きをして北京へ(1時間) 体制の変化と時代の進歩で中国の変貌に驚いた。まず内城、外城を分けていた城壁が無くなり、路面電車は地下に潜り、高層ビルが林立し、道路は自転車で埋まっていた。 |
内城に通じた門だけは残っていた、天安門もその一つであるが、今は東西500m、南北800mの天安門広場となりその広さに圧倒された。明、清代の皇帝と最後の皇帝まで住んだ金色に輝く紫禁城も今は故宮博物院と呼ばれていた。 冬になると池の水が凍りスケート場だった南海、中海、北海も公園化され、西太后が大改築をして隠居所とした万寿山、昆明湖も頤和園と呼ばれる広大な公園になり、青い瑠璃瓦の映える祈念殿、皇帝が天に祈った3層の円形大理石の壇のホアン丘の天壇公園、世界最大の大城壁の万理の長城は今も変わりなく威容を誇っていた。 |
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西安 北京から1時間40分で着く西安 、 唐代の建築物が立ち並ぶいにしえの都、西安(長安)、北京のような近代化され華やかさはないが古都としての尊厳さがある、絶世の美女楊貴妃に溺れた玄宗皇帝もここに住んだといい、シルクロードの出発点となっている城壁(安定門)、玄そう三蔵 がインドから持ち帰った経典の翻訳と保存のために建てられた大雁塔、七層最上階まで248段あるという、最上階までは登れなかった。 | ![]() | 特に心打たれたのは、長安城の興慶宮跡に作られた公園内に建てられた阿部仲麻呂の記念碑である、717年に遣唐留学生として入唐し一度は帰国も試みたが台風に遭い、再度長安に戻り使官して73歳の生涯を閉じたという、「天の原・・・・・」の望郷詩が刻まれ、望郷の念に涙する想いだった。 |
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・西安から上海へ 上海は一泊でゆっくり名勝古跡を訪ねることはは出来なかった、中国最大といわれる大都市 第二次大戦以前は欧米諸国の租界地が築かれ、その頃建てられたレトロな建物と近代ビルが立ち並ぶ近代都市。 バスで街中を走り、中国の明石を集めて作られた預園を見る、中国式庭園で四川省の役人が父親の為に造った私園で上海きっての観光地だという。 戦中唄われた「霧の四馬路・・・・」もバスで走ったがあの頃の感慨は湧いて来なかった。 6日間の旅を終わって帰ったが、中国の華やかな観光地だけを見せられた思いで、自分が過ごした50年前の中国との出会いはなかった。 |